目に逢ふ筈がない。すぐに一つ声を掛けて見よう。」女はかう思つて呼んだ。「セルギウスさん。セルギウスさん。セルゲイ・ドミトリエヰツチユさん。カツサツキイ侯爵。」
 戸の奥はひつそりしてゐる。
「お聞きなさいよ。あなたそれではあんまり残酷でございませう。わたくしはあなたをお呼申さないで済むことなら、お呼申しはいたしません。わたくしは病気です。どうしたのだか分りません。」女の声は激してゐる。「あゝ。あゝ。」女はうめいた。そして頭を音のするやうに寝台の上に投げた。不思議な事には、実際此時|脱力《だつりよく》したやうな、体中が痛むやうな、熱がして寒けがするやうな心持になつたのである。「お聞きなさいよ。あなたがどうにかして下さらなくてはならないのです。わたくしどうしたのだか分りません。あゝ。あゝ。」かう云つて女は上衣の前のボタンをはづして胸を出して、肘までまくつた腕を背後《うしろ》へひろげた。「あゝ。あゝ。」
 此間始終セルギウスは板為切の奥に立つて祈祷してゐた。とう/\晩に唱へるだけの祈祷の文句を皆唱へてしまつて、しまひには両眼の視線を自分の鼻の先に向けて、動かずに立つてゐて、「イエス・クリスト
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