度は声を立てゝ笑つた。快活な、自然な、人の好さゝうな笑である。実際此笑声は女の希望した通りの作用をセルギウスの上に起したのである。女は思つた。「あんな風な男なら、随分好いて遣る事が出来さうだ。まあ、なんと云ふ目だらう。それに幾ら祈祷の文句を唱へたつて、なんと云ふ打ち明けたやうな、上品な、そして情熱のある顔だらう。わたし達のやうな女には皆分る。あの人はあの窓硝子に顔を押し付けてわたしを見た時、あの時もうわたしの事が分つて、わたしがどんな女だと云ふ事を見抜いたのだ。あの人の目はその時赫いた。あの人はその時わたしの姿を深く心に刻んだ。あの人はもうわたしに恋をしたのだ、惚れたのだ。さうだ。たしかに惚れたのだ。」こゝまで思つて見た時、靴がやつと脱げた。それから女は靴足袋を脱ぎに掛かつた。上の端がゴム紐で留めてある、長い靴足袋を脱ぐには、裳《も》をまくらなくてはならない。流石《さすが》に間を悪く思つて、女は小声で云つた。「あの、今こちらへ入らつしやつては困りますよ。」
 板為切《いたじきり》の向側からは返事が聞えない。矢張単調な祈祷の声がしてゐる。それと慌《あわたゞ》しげに立ち振舞ふ物音がするだけ
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