《ひざまづ》く台とがあるばかりである。戸の側の壁に釘が二三本打つてあつて、それに毛皮と僧の着る上衣とが懸けてある。祈祷の台の側には荊の冠を戴いたクリストの画像を懸けて、その前に小さい燈火《ともしび》を点《てん》じてある。室内には油と汗と土との臭が充ちてゐる。女には室内の一切の物が気に入つた。此臭までが気に入つた。女の一番気にしてゐるのは足の濡れたのである。中にも行潦に蹈み込んだ左の足は殊にひどく濡れてゐるので、女は早く靴を脱がうとしてあせつてゐる。女は靴をいぢりながら絶えず微笑んでゐる。自分の企てた事をこゝまで運ばせたのを喜んでゐるばかりではない。あの丈夫さうな、異様な、好いたらしい男をちよいと困らせたのが愉快なのである。「わたしがいろんな事を言つたのに、ろくに返事もしてくれなかつたが、まあ、それはどうでも好い」と心の中に女は思つた。そしてすぐに声を出して云つた。「セルギウスさん。セルギウスさん。あなたのお名はさう仰やるのでしたね。」
「何か御用ですか」と小声で答へた。
「御免なさいよ。こんなにわざと寂しくして暮してお出なさる所へ、お邪魔に出て済みません。ですけれど実際どうにもしやうが
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