しきに至つては或る数日間、全く信仰と云ふものを無くしてゐます。世界がどんなに美しく出来てゐたつて、それが罪の深いものであつて、それを脱離しなくてはならないものである限は、なんの役に立ちますか。主よ。あなたはなんの為めにそんな誘惑を拵へました。あゝ。誘惑と云ふものも考へて見れば分らなくなります。わたくしが今世界の快楽を棄てゝ、彼岸に何物かを貯へようとしますのに、その彼岸に若し何物も無かつた時は、これも恐しい誘惑ではございませんか。」こんな風に考へてゐるうちに、セルギウスは自分で自分が気味が悪く、厭になつて来た。「えゝ。己は人非人だ。これで聖者にならうなぞと思つてゐるのは何事だ。」セルギウスはかう云つて自分を嘲《あざけ》つた。そして祈祷をし始めた。
 ところがセルギウスは祈祷の最初の文句を口に唱へるや否や、心に自分の姿が浮んだ。それは前に僧院にゐた時の姿である。法衣《はふえ》を着て、僧帽を被《かぶ》つた威厳のある立派な姿である。セルギウスは頭を掉《ふ》つた。
「いや/\。これは間違つてゐる。これは迷だ。人を欺くことなら出来もしようが、自ら欺くことは出来ぬ。又主を欺くことも出来ぬ。なんの己に
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