威厳なぞがあるものか。己は卑い人間だ。」かう思つてセルギウスは法衣の裾をまくつて、下穿《したばき》に包まれてゐる痩せた脚を眺めた。それから裾を下して、讃美歌集を読んだり、手で十字を切つたり、額を土に付けて礼をしたりし出した。セルギウスは「此|床《とこ》我が墓なるべきか」と読んだ。それと同時に悪魔が自分に囁くやうに思はれた。「独寝《ひとりね》の床は矢張墓だ、虚偽だ」と云ふ囁きである。それと同時にセルギウスが目の前には女の肩が浮んだ。昔一しよになつてゐた事のある寡婦の肩である。セルギウスは身震をしてこの想像を斥けようとした。そして読み続けた。今度は僧院の清規《せいき》を読んだ。それが済んで福音書を手に取つて開いた。すると丁度度々繰り返したので、諳誦する事の出来るやうになつてゐる文句が目の前に出た。「あゝ、主よ。我は信ず。我が不品行を救はせ給へ」と云ふ文句である。
 セルギウスは頭を擡《もた》げてあらゆる誘惑を払ひ除けようとした。譬へばぐらついてゐる物を固定して、均勢を失はせないやうにする如くに、セルギウスはゆらぐ柱を力にして自己の信仰を喚び起して、それと衝突したり、それを押し倒したりせぬや
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