ッの出家したのでしたね。評判の美男ですわ。」
「その男です。」
「皆さん、御一しよにカツサツキイさんの所まで此橇で往きませうね。そのタムビノと云ふ所で休んで何か食べることにいたしませうね。」
「そんなことをすると日が暮れるまでに内へ帰ることは出来ませんよ。」
「構ふもんですか。日が暮れゝばカツサツキイさんの所で泊りますわ。」
「それは泊るとなれば草庵なんぞに寝なくても好いのです。あそこの僧院には宿泊所があります。而も却々《なか/\》立派な宿泊所です。わたしはあのマキンと云ふ男の辯護をした時、一度あそこで泊りましたよ。」
「いゝえ。わたくしはステパン・カツサツキイさんの所で泊ります。」
「それはあなたが幾ら男を迷はすことがお上手でもむづかしさうです。」
「あなたさうお思なすつて。何を賭けます。」
「宜しい。賭をしませう。あなたがあの坊さんの所でお泊りになつたら、なんでもお望の物を献じませう。」
「〔A《ア》 discre'tion《ヂスクレシヨン》〕」(内証ですよ。)
「あなたの方でも秘密をお守でせうね。宜しい。そんならタムビノまで往くとしませう。」
この対話の後に一同は持つて来た生菓子やその外甘い物を食べて酒を飲んだ。それから骨を折らせる馭者にもヲドカを飲ませた。貴夫人達は皆白い毛皮を着た。馭者仲間では、誰が先頭に立つかと云ふので喧嘩が始まつた。とう/\一人の若い馭者が大胆に橇を横に向けて、長い鞭を鳴しながら掛声をするかと思ふと、自分より前に止つてゐた橇を乗り越して走り出した。鐸《すゞ》が鳴る。橇の底木の下で雪が軋《きし》る。
橇は殆ど音も立てずに滑つて行く。副馬《ふくば》は平等《へいとう》な駆歩を蹈んで橇の脇を進んで行く。高く縛り上げた馬の尾が金物で飾つた繋駕具《けいかぐ》の上の方に見えてゐる。平坦な道が自分で橇の下を背後《うしろ》へ滑つて逃げるやうに見える。馭者は力強く麻綱を動かしてゐる。
貴夫人マスコフキナと向き合つて腰を掛けてゐるのは辯護士の一人と士官とである。二人はいつものやうな誇張《くわちやう》した自慢話をしてゐる。マスコフキナは毛皮に深く身を埋めて動かずに坐つてゐる。そして心の中《うち》ではこんな事を思つてゐる。「此人達の様子を見てゐれば、いつも同じ事だ。同じやうに厭な挙動で厭な話をしてゐる。顔は赤くなつて、てら/\光つて、口からは酒と煙草の臭がす
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