る。口から出る詞もいつも同じやうで、その思想は只一つの穢《けが》らはしい中心点の周囲をうろついてゐる。かう云ふ人は皆自己に対する満足を感じてゐる。世の中はかうしたものだと思つてゐる。自分が死ぬるまでかうしてゐるのを別に不思議だとは思はない。わたしはこんな人達を傍《はた》で見てゐるのにもう飽々した。わたしは退屈でならない。わたしはどうしてもこんな平凡極まる境界《きやうがい》を脱して、新しい境界に蹈み込んで見ずにはゐられない。たしかサラトフでの出来事であつたかと思ふ。遊山《ゆさん》に出た一組が凍え死んだ事がある。若し此人達がそんな場合に出逢つたら、どんな事をするだらう。どんな態度を取るだらう。言ふまでもなく狗《いぬ》にも劣つた卑劣な挙動をするだらう。どいつもどいつも自分の事ばかり考へて身を免れようとするだらう。とは云ふものゝ、わたしだつて同じやうな卑劣な事をするだらう。それはさうだが、わたしは此人達より優れた所が一つある。兎に角わたしは器量が好い。それだけは此人達が皆認めてゐて、わたしに一歩譲つてゐるのだ。そこで例の坊さんだが、あの人はどうだらう。此わたしの器量の好い所が、あの坊さんには分らないだらうか。いや/\。それは分るに違ひない。男と云ふものに一人としてそれの分らない男はない。どの男をも通じて、それだけの認識力は持つてゐる。去年の秋の頃だつけ。あの士官生徒は本当に可笑《をか》しかつた。あんな馬鹿な小僧つてありやしない。」
 こんな事を考へてゐたマスコフキナ夫人は向うにゐる男の一人に声を掛けた。「イワン・ニコライエヰツチユさん。」
「なんですか。」
「あの人は幾つでせう。」
「あの人とは誰ですか。」
「ステパン・カツサツキイです。」
「さうですね。四十を越してゐませうよ。」
「さう。誰にでも面会しますか。」
「えゝ。だがいつでも逢ふと云ふわけでもないでせう。」
「あなた御苦労様ながら、わたしの足にもつとケツトを掛けて頂戴な。さうするのぢやありませんよ。ほんとにあなたはとんまですこと。もつと巻き付けるのですよ。もつとですよ。それで好うございます。あら。なにもわたしの足なんぞをいぢらなくたつて好うございます。」
 連中はこんな風で山籠の人のゐる森まで来た。
 その時マスコフキナ夫人は一人だけ橇を下りて、外の人達にはその儘もつと先まで乗つて往けと云つた。一同夫人を抑留しよ
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