アれまで自分の住んでゐた宿房とその中にある器財とを皆僧院に引き渡して置いて、タムビノの山をさして出立した。
山の首座は素《もと》商人で遁世した人である。此人がセルギウスを引見して、なんの変つた扱をもせずに、只あたり前の事のやうに寂しい草庵を引き渡してくれた。草庵と云ふのは山の半腹を横に掘り込んだ洞窟である。亡くなつた先住イルラリオンもそこに葬つてある。即ち洞窟の一番奥の龕《がん》が墓になつてゐて、その隣の龕が後住《ごぢう》の寝間になつてゐるのである。そこには藁を束ねた床がある。その外卓が一つ、聖像と書物数巻とを置いてある棚が一つある。扉は内から錠を卸すことが出来るやうにしてある。その扉の外面にも棚が吊つてあつて、これは毎日一度づゝ僧院から食事を持つて来て載せて置いてくれる棚である。
セルギウスはとう/\山籠《やまごもり》の人になつてしまつた。
三
セルギウスが山籠をしてから六年目のことであつた。ロシアではクリスト復活祭の前にモステニツアと云つて一週間バタや玉子を食べて肉を断つてゐることがある。そのモステニツアに、タムビノに近い或る都会で、富有な男女の人々が集つて会食をした。此連中が食後に橇に乗つて近郊へ遊びに行かうと云ふことになつた。その人々は辯護士が二人、富有な地主が一人、士官が一人、それに貴夫人が四人であつた。夫人の一人は士官の妻《さい》で、今一人は地主の妻である。三人目の女は地主の同胞《どうはう》で未婚の娘である。さて四人目の女が一度離婚したことのある人で、器量が好くて財産がある。そしていつも常軌を逸した事をして市中の人を驚かしてゐるのである。
その日は上天気で、橇に乗つて往く道は好い。市中を離れて十ヱルストばかりの所に来て、一同休んだ。その時こゝから引き返さうか、もつと先まで往かうかと云ふ評議があつた。
「一体此道はどこまで行かれる道ですか」とマスコフキナが問うた。例の離婚した事のある美人である。
「これからもう十二ヱルスト行けばタムビノです」と辯護士の一人が答へた。これは平生マスコフキナの機嫌を取つてゐる男である。
「さう。それから先は。」
「それから先はL市に往くのです。タムビノの僧院の側を通つて往くのです。」
「そんならその僧院はあのセルギウスと云ふ坊さんのゐる所ですね。」
「さうです。」
「あれはステパン・カツサツキイと云つた士
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