ふ事は出来ませんから。」
パシエンカはぎくりとした。そして立ち上つて忙しげに、踵の耗《へ》つた靴を引き摩つて戸の外へ出た。間もなく帰つて来た時、パシエンカは二つになる男の子を抱いてゐた。子は反《そ》り返つて両手でお祖母《ば》あさんの領《えり》に巻いてゐる巾《きれ》を引つ張つてゐた。パシエンカは語を継いだ。「どこまでお話いたしましたつけ。ワニヤは此土地で好いお役をしてゐました。上役の方もまことに善いお方でございました。それにワニヤは辛抱が出来ないで、とう/\辞職いたしました。」
「体はどこが悪いのです。」
「神経衰弱と云ふのださうでございます。まことに厭な病気だと見えます。お医者にどういたしたら宜しいかと聞きますと、どこかへ保養に往けと申されます。でもそんなお金はございません。わたくしの考へでは此儘にいたしてゐても、いつか直るだらうかと存じます。別に苦痛と云つてはないのでございますが。」
此時「ルケリア」と男の声で呼んだ。肝癪を起してゐるやうな、その癖元気のない声で、婿が呼んだのである。「いつ呼んだつてゐやしない。己の用のある時はいつでも使に出してある。おつ母さん。」
「すぐ往くよ」とパシエンカは返事をした。そしてセルギウスに言つた。「まだ午《ひる》を食べてゐないのでございます。あれはわたくし共とは一しよに食べられませんので。」パシエンカはかう云ひながら立つて、何やら用をした。それから労働の痕のある、痩せた手を前掛で拭きながら、セルギウスの前へ帰つて来た。「まあ、こんな風にして暮してゐるのでございます。わたくしはいつも苦情ばかり申して、万事不足にばかり思つてゐます。その癖孫は皆丈夫で好く育ちますし、どうにかして暮しては行かれますから、本当は神様にお礼を申さないではならないのでございます。それはさうと、ほんに詰らない事ばかり長々と申しまして。」
「一体なんで暮しを立てゝゐるのですか。」
「それはわたくしが少しづつ儲けますのでございます。小さい時稽古をいたしました自分には厭であつた音楽が役に立つてゐますのでございます。」パシエンカは坐つてゐる傍にある箪笥の上に、細つた手を載せて、殆ど無意識にピアノをさらふやうな指の運動を試みてゐる。
「一時間でどの位貰ひますか。」
「それはいろ/\でございます。一ルウブルの事もあり、五十コペエケンの事もあり、又三十コペエケンしか貰はれ
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