つてゐる。
「可哀さうに。まだ若い男だが、この創は直らない。」
フアウヌスは踊子の砕けたのを見て、暫くは茫然として動かずにゐた。やうやうの事で自分のした事が分かると、どしりと膝を衝いて、荒々しい絶望の挙動をし始めた。その内に飾棚の中では、フアウヌスに対する公憤が絶頂に達した。一同この悪《にく》む可き犯罪者の為めに、刑罰を求めて已まなかつた。
その刑罰は程なく実現した。二三日立つと飾箱の前へ大きな翁《おきな》が出て来た。どこやら公爵に似た顔付である。さて自分の所有の美術品を見ると、非常な狼藉がしてあるので、勃然として怒《いか》つた。誰が狼籍者であるかといふ事は、直ぐに分かつた。フアウヌスは誰が見ても怪むやうな、絶望の様子をしてゐたのである。翁はフアウヌスを飾箱から撮み出して、その日の内に棄売《すてうり》に売つてしまつた。それからといふものは、フアウヌスは次第に落ちぶれて行くばかりである。恥かがやかしい競売《せりうり》に遭ふ。日の目も当らない、五味だらけの隅に置かれて蜘蛛のいに掛かる。とうとうなんだか見定めの附かない物になつて、陶器の欠けや、古鉄《ふるかね》や、廃《すた》れた家の先祖の肖像と一しよに、大道店《だいだうみせ》に恥を晒して終つたのである。
これだけの不幸の重なつた物語で見れば、賢明なる道徳の教師先生は、この中から疑ひもなく豊富な材料を見出す事であらう。あらゆる国の人達は、昔から総ての出来事を種にして、道徳を建設したではないか。さうして見ればこの場合に道徳論をするのは造作もないが、只どういふ道徳をこの中から引き出したが好いか、分からない。只その選択に困る。作者はそんな事をする事は御免を蒙りたい。なぜといふに、作者の経験によれば、こんな時に吐き出す金言は、その証明の力が大きい丈、それ丈不幸に遭遇したものに対して、無駄な残酷を敢てするに当るからである。
底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店
1979(昭和54)年12月19日第1刷発行
初出:「新小説 一六ノ七」
1911(明治44)年7月1日
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2000年5月11日公開
2005年12月25日修正
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