言ひませうか。お前さんを滅ぼしたのは、彼《か》の堕落の精神だ。この精神が女を煽動して、その胸の中に不可測の出来心を起させる。この精神が、思ひも寄らない時に、女の貞操を騙して、真つ暗な迷ひの道に連れ出す。
 大抵さういふ過失は、言ふに足らざる趣味の錯誤である。そこでその過失の反理性的な処《とこ》に、どうかすると一旦堕落した女の、自業自得の禍から遁《のが》れ出る手掛かりもあるものだ。なぜといふに、女は過失に陥るのも早いが、それを忘れるのが一層容易なものである。
 あゝ。不幸にもお前さんはそんな風に禍を遁れることが出来なかつた。お前さんの不注意は自滅の原因になつたばかりでなく、お蔭で罪のない、お前さんの友達までが、迷惑を蒙つたのである。
 その恐るべき出来事は左の通りである。
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 或る晩フアウヌスがクサンチスを待つてゐたが、いつもの時刻に来なかつた。暫くは我慢してゐたが、とうとう十一時半が鳴つたに、クサンチスはまだ来ない。これが外の男なら、女の来ない理由を考へて、自分の恥にもならず、又自分の恋慕の情をも鎮めるやうな説明を付けただらう。そして一時の不愉快を凌ぐ事が出来ただらう。ところがフアウヌスには二つの判断を結び付ける事が出来ない。事実の外の物をば一切認める事が出来ない。一つの事実を手放すには、他の事実を掴まなくてはならないのである。
 もう我慢が出来ないといふ瞬間に、フアウヌスは突然立ち上がつて、クサンチスを捜しに出掛けた。飾棚の隅の処に、薔薇の木の小箱がある。その小箱に付いて曲つて、二十歩ばかりも行くと、クサンチスが見付かつた。
 まあ、なんといふざまだらう。クサンチスは彼《か》の厭な支那人の膝の上に乗つてゐる。女は体をゆすつて精一ぱいの笑声を出してゐる。厭な野郎は不細工な指で、女の着てゐる空色の外套をいぢくつてゐる。美しい襞を形づくつてゐる外套の為めに気の毒な位である。それは長くは続かなかつた。吠えるやうな大喝一声に、棚の硝子《ガラス》が震動して、からから鳴つた。フアウヌスが銅《あかゞね》の腕を振り翳した。一声の叫びをする遑《いとま》もなく、タナグラ製の小さい踊子は微塵になつてしまつた。
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 これが踊子クサンチスの末路であつた。葡萄の実り豊かに、海原の波の打ち寄せる、クリツサの市《いち》に生れた、明
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