ます。初めは「並のもり」といういわゆる駄蕎麦ばかりを食ったものですが、しかしこれを段々やっているうちにあの白い細い更科の方がよくなり、駄蕎麦の方も旨いには旨いが、味が重いし、舌へ残る気持も少しべっとりとする。更科は少しあっさりと過ぎる位に淡々たるところがいいようであります。
牛込神楽坂の「春月」もよろし。「もり」「ざる蕎麦」何でもよいが、あのうちの下地に特徴があります。この方の通人にいわせると、蕎麦は下地をちょっぴりとつけてするすると吸い込むものだというけれど、私はやはり下地を適当につけて口八分目に入れていくのがよいと思っています。
信州から蕎麦粉を取り寄せて打ってもらって食べることもあるけれども、どうも旨くない。蕎麦屋に頼むものでありますから、東京式に打つので、自然饂飩粉などを多く入れるのでこんなことになるのではないかと思って悲観しております。(『食道楽』誌より)
満州蕎麦の味(酒井章平氏の話)
前略 一、二月に入ってから、私共が一番に嗜好する所のものは「手おし蕎麦」でありました。一体満州の蕎麦の産額はなかなか大きく、日本内地にも十万石ほど輸出をしているとのことでありますが、満州人は稀に餃子《ジャウズ》の皮に蕎麦粉を用いている位で、一向に蕎麦を利用している様子が見えませぬ。それで、
「蕎麦を味わうには」どうしても内地式の手打ち蕎麦が第一等であろうが、これを作るにはなかなか技術が要り、労力もかかり、あるいは小麦粉などのつなぎを入れるために蕎麦の風味を失い勝ちとなりますので、蕎麦を常食として簡単に、しかも最も「蕎麦」の風味を生かして摂取することにつきては、渡満前から内々苦心をしていたのでありますが、僅かに機械蕎麦位で我慢をして来たのであります。
それで機械だけでも安くて四、五十円はとられるので、「つなぎ」を余程入れぬと切れ易く、甚だ難しかったのでありました。ところがある時、干先生が支那の場末の恐ろしく汚い飲食屋で「つなぎ」も不要、しかも切れずに風味も充分あるという「蕎麦」を見つけたといわれるので、早速出掛けて箸や茶碗を消毒させて食べてみたところ、とてもおいしいという訳にゆかぬが、とにかく今までの心配を全部ふきとばしてくれるほどの喜びでありました。道具の値段は幾らだと聞きますと、約廿円だとのことで、これならば買わずとも農民の手でできるというので渡辺兄にお願いして、二、三日で作って頂き早速実行いたしました。最初はどうしても物足らぬところがあって、信州の人達の助言によって改良したところ、蕎麦だけで、これはまた案外どころではない、とても旨いものができるようになったのであります。
道具も簡単であり調理も楽にでき、しかも北大栄の倉庫には昨年(七年)の収穫した蕎麦が五十石もあったので、製粉のできる範囲において「手おし蕎麦」の煮込みに舌鼓を打とうと、一日一回は朝食といわず夕食といわず、煮込み蕎麦で結構いけます。東京辺で生粋の「蕎麦の味」を売り出したらどうかとも思う位であります。東京有数な藪忠ではむしろ道楽商売になっていて、東京蕎麦の真の風味を常に楽しむことは不可能といってよい。半分の「つなぎ」を入れているのはまだ正直な方で、近来は小麦粉に色をつけて胡魔化しているのが多いのであります。
これというのも技術が非常に難しくて、これだけの職人を養っていては「蕎麦屋」が立ってゆかぬために、漸次「今様の蕎麦」がはびこり出したのではあるまいかと思います。
例の食道楽の大谷光瑞氏も、真の「蕎麦」の風味は太くして切れ切れのでなくては本当でないとまで負おしみをいっておられる位で、これほどまでにそばの真の風味をなつかしみ、求めている日本人が何故にこの満州人に知識を借りなかったのであろうかと思います。
今までの日本人は、あまりに彼等を軽蔑し、あまりにお高くとまっていたのではありますまいか。眼を開けば到る所師ありで、人もあなどり、ものをいやしむ心の生じた時向上はない。今までの満州植民者が食物の点において、確固たる方針を定め得なかったのも、一面はかかる心持ちにわずらわされていたものではありますまいか。軽侮する者はまた恐るという通り、一方にはむやみに支那農民の食物は粗食でついてゆけぬと考えていると同時にまた反面、包米ビーンズに高粱飯を食わねば満州農業移民は成立せぬなどといっています。「閑話休題」蕎麦は栄養価値中[#「蕎麦は栄養価値中」に傍点]、重要の地位を占むるところの蛋白質に関して穀類中まことに優良なるものを含有しています。
鈴木梅太郎博士が「満州に蕎麦のできることは満州植民者にとって実に幸福なことである」といわれるのもこの料理法であってはじめてうなずかるるものであります。(『糧友』第八巻第九号による)
蕎麦の真味
何に限らず、料理し過ぎたものは風味の悪くなるものであるも、不味なるものには他の味を求めなければなりませんが、実際の味は各々別個に持つもので、蕎麦のごときも蕎麦そのものの味をたっとばねばならぬは勿論のことで、蕎麦そのものには栄養分を豊富に有しているものでありますから、蕎麦粉の中へつなぎまたは味の向上を計る味の素など以外のものを混入する必要はないと思われます。
蕎麦の味は、要するに蕎麦切として食べることにより、真価を知るという結論になるのであります。
蕎麦切のつなぎ
蕎麦のつなぎは、鶏卵、自然薯、長芋、薯蕷《やまのいも》、大和薯、仏掌薯《つくねいも》などを使用します。しかし仏掌薯は蕎麦切をやや硬くする恐れがあります。
鶏卵を入れて打ったものは、他のものに比較して蕎麦の量が非常に増すものであります。
これがつなぎについて藪忠老人の話によると、[#以下の「(イ)」「(ロ)」「(ハ)」「(ニ)」は縦中横で1字組み]
(イ)鶏卵つなぎは、蕎麦粉一升に(百匁六個位の)卵二個、これに清水を増してこねます。また挽粉の荒い場合は一個を増して三個といたします。
(ロ)薯蕷つなぎは、これは生でおろし込むことが普通でありますが、でき上がりが軟らかになることもありますから、薯蕷の乾粉を使用すると佳良であります。その割合は、蕎麦粉一升につき薯蕷粉八勺です。
(ハ)葛粉つなぎは、蕎麦粉一升につき上葛粉五勺の割にするとよいとのことであります。
なお東京市内ではないと存じますが、場末の蕎麦屋なり駄蕎麦屋では、鶏卵も薯類及び葛粉などを用いないで、米利堅粉を「つなぎ」に多く入れるところがあるかのように聞いています。その内ひどいのになると、蕎麦粉四合につき米利堅粉六合、即ち「四分六」の割にしているのもあるそうです。次は蕎麦粉五分の米利堅粉五分の半々位のものもあります。しかし実際蕎麦の「つなぎ」とするには、三割の米利堅粉は普通でありましょう。人によると、なァに一割でも二割でもつなぎなしでもできるといっていますが、これは当てになりません。
(ニ)昔は馬方蕎麦を打って
蕎麦屋の職人の達者な者は、昔馬方蕎麦を打って、板前の腕を磨いたという話であります。
その馬方蕎麦というは、四谷にあって俗に「四谷の馬方蕎麦」といって有名であったようであります。この馬方蕎麦、その他昔から有名であった蕎麦屋について蕎麦通の高村光雲翁の話では、御維新後、蕎麦は「もり、かけ」十六文、店の前の往来へ大抵正面に「二八」横の方に「二八蕎麦」と書いた大きな「あんどん」がおいてありまして、下開きの幅の広い板が台について障子紙を張ってあり、横長の「かけあんどん」には「そば、うどん、もり、かけ」と最初に書いて、それから「花巻、玉子とじ、天ぷら、しっぽく、南ばん」と順に右から左へ縦書にしてありました。これが夜の四つ(今日の午后十時)まではとぼとぼと道を照らしていたものであります。ところによっては往来のこのあかりがひとしお淋しく感じさせます。
武家は余りまいりませんが、町人は食べに行きます。家の内の拵えは今と大差なく、やはり切り落としの土間になっていて、そこに八間がついていました。この八間というのは、今の人々にはちょっと分りにくいけれども、いわば大きな紙の傘で、その下に土瓶形をした金物の油つぼがあって、その口へ火がついているのです。油煙がどんどん出るので、八間へ張った紙はすぐにくすぶったものであります。蕎麦屋とか湯屋のあかりは皆これであったのであります。
蕎麦は手打ち、うでて「しゃっきり」と角があって、おつゆをかけて出されてもきらりと光っていたものであります。「かけ」の丼は八角の朝顔形で、蒸籠も今のとはちょっと違って、あの四角の端に耳が出ていました。つまり井桁に組んであって、あげ底に細い竹が薄く簀のように作りつけになっていました。この頃は、竹の簀もしごく手軽になっていますが、あんなものでなかったのです。
手で粉をこねて延し、さくりさくりと切った蕎麦でありました。今のように機械でずるずる出て来るのと違って風味がありました。「笊蕎麦」というのは、通常のところにはなく、竹あみの一枚笊へ盛って出すので、海苔なんかかかっているものではなかったのです。神田けだもの店《だな》(今の豊島通りを右へ廻った辺)に「二六蕎麦」という名物、つまり十二文でなみのところより四文安いが、またその安いざつなところに一種の味があって、蕎麦食い達はよく出かけたもので、なかなか旨いものでありました。
四谷の「馬方蕎麦」も評判で、真黒いがもりがよくって、一つで充分昼食の代りになったのです。四谷も今でこそ東京一という新宿のような結構なところとなったのですが、あの頃は「馬方」ばかりがぞろぞろ通って、並の人よりこの方の人が多い位であったのであります。そこで馬方が休んではこの蕎麦を食べるので、遂に「馬方蕎麦」と有名になってしまったのであります。
蕎麦屋を最新カウンタ式に
蕎麦切を食うには、椅子に腰をかけ靴ばきではおちつきがない。真の風味を味わうには、畳の上に座して静かに味わうに限ると前述したものであります。しかし一方においては、実際蕎麦切なり蕎麦麪を味わう真の店として、いたって古風な通人向きの座席の家もなければならず、また文化の進歩した今日のことでもありますから、大衆向きに椅子に腰をかけて簡単に食べられる店も必要と存じます。しかし今日の蕎麦屋の大多数を見るに、これに反し表がまえと内部は異なり、内部は蕎麦屋ともつかず、またカフェーともつかぬ家が多く、少し町の変わった方面の蕎麦屋に入ってみるに、明治初年のそのままの店がまえの家さえあるようで、こんな家に限って客席に蕎麦道具を並べたり、またその席で出前の仕度をするなど、時によるとそこで葱をこつこつ刻んだり、大根をおろしたり、そのうえ調理場といわず客席といわず、またひどいのになると、釜湯の上を油虫がぞろぞろはっているというような不潔さであります。その一例として著者は昨年の初夏の頃でありましたが、友人を上野駅に見送って帰途、山下のある蕎麦屋に入って、天ぷら蕎麦を注文して食べようとすると驚くではありませんか、その中にしかも立派な油虫が一疋存在ましましたのでした。こんな例は他にもよく聞くことでありますが、代りを食べる心地にもなれぬではありませんか。なぜ調理場に油虫の発生するような不潔なことをするかと思ったこともありました。ともかく、第一今の蕎麦屋なるものの店舗の改良は問題の一つで、大衆向きの店舗にするには今日のごとき表がまえでは、少し身分ある即ち中産階級の人々や婦人連はどうしても入り難いということであります。これについては蕎麦屋側としても大いに一考を要することでしょう。
今一つの問題は、前項蕎麦屋の主人の説としてちょっと述べておきました、蕎麦道具でありますが、蕎麦屋側からいわせると、塗物類は高価であるということであります。これはもっともな説で、他の飲食物の器から見ると少し高価過ぎるかたむきは本当のことで、一枚十銭の「もり」なり、十五銭の笊蕎麦の道具に一円二十銭も、少し良いものは二円近くもかけていることであるから、少し贅沢過ぎると思います。
しかしそんな高価な蒸籠やその他の器
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