れた。彼は、硝子をバタバタやった。ブーン、蜂のように勁い翅音で滑っこく冷たい散歩場から追立てられた熊蠅は、徐ろに上下左右、空中検察を行って飛ぶが、なかなか中央の薬紙には寄付かない。折々、嗅覚をそそられはするらしいが、その老練な経験で何かただならぬ人間の狡智を洞察しているといった風だ。
源一は、変にむきになって来た。大昔、彼の祖先が大和国の山野で鹿を追い廻した最中の微弱な遺伝を発露させ、源一は、蠅が右へ行けば左へ、左へ廻れば右へ手を振り、仕舞には新聞を畳んだのをまで加勢にして対抗した。自由自在に飛ぶ蠅を、広い空間の中で工合よく幅一寸の粘紙に追い込もうとするのは少し無理だ。彼は、方針を変えた。暫く放って置くと、予期しない運動で疲れた熊蠅は、上戸棚の敷居に翅を休めた。源一は、粘り紙の方を、今度は両手に持ち忍び足に近づいた。心の中での掛声。
「畜生!」
ジージュージュジュジー。源一は漠然と満足を覚えた。然し、熊蠅は、非凡な翅音を立てるだけ力があり、不意な、英雄的でない攻撃を憤怒して必死に翅を震うと、だんだん体の自由を恢復した。ちょうどもがく肢の処に一匹もうぴりりとも動かない小蠅の体があった。彼は、逞しい肢でしっかりそれにしがみついた。ジジージジュー。とうとう体じゅうに網を張られた小人国のガリバーのように粘りの糸を引きながら起き上った。肢には、抱きついて起きた仲間の骸《むくろ》がついて離れない。その重荷をつけたまま、熊蠅は一歩、一歩、異常な努力のため剛毛の生えた腹を曲げ、吸つく肢を引ずって薬紙の上を歩き出した。雄々しさを褒める感歎が源一の心に湧いた。さあ、もう一歩、もう一歩、不幸な運命と勇ましく闘う王のような熊蠅が、無事にこの粘紙の地獄を抜けきったら、源一は、天晴《あっぱれ》な奴だ、逃してやろうと思った。今、薬紙は、戸棚の前に下っている。蠅取紙を横切れば、熊蠅は襖紙の上に出られる筈であった。この時の熊蠅の肢の踏張り方! 粘りまみれの全身を引ずって行く努力の真剣さ! 源一は気のよい青年であったから、打れたようになってその光景を観察した。もう一分――そら、もう一分の半分ほど。――蠅は、終に恐るべき蠅取紙の外へ一厘ばかり片肢を出した。その途端、源一は蠅の全身を貫き、焔のような歓喜が突走ったのを感じた。源一の心裡に異様な衝動が煽られた。彼は急がずせかず、新聞の間から落ちた広告のビ
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