。蠅は一向感情を動かさないらしかった。全然自分の目前に、源一の髭面が突出ているのさえ認めないらしい。源一は、劬《いたわ》りつつ口を尖《とがら》して蠅を吹いて見た。すると、別に遽《あわ》て騒ぐ風もなく二対のしなしなした脚を踏張って平然と堪えて見せる。小さな蠅はそういう時、一層自己の存在の真価を自覚した威厳を示すようでさえある。源一は、片肱にぐっと力をもたせ、左手の掌で掬《すく》う恰好をつけながら、じりじり四五寸のところまで肉迫し、颯《さ》っと横なぐりに蠅を捕えてしまおうとした。蠅は、ジ! と翔び去った。
 源一は、くるりと仰向きになった。見ると蠅は、彼の新聞紙の上に止ったばかりではない。昨日は一匹もいなかった蠅が十匹近く、天井や電燈の周囲に群とんでいる。東向に肱かけ窓があり、隣境のトタン塀に烈しく反射する日光で四畳半はまるで明るい。蠅共はひどく、正午近いその明るみの中で腥《なまぐさ》く感じられた。源一は台所へ出て行った。
「こないだ、蠅取紙買って来ましたね」
「ああ」
「どこです」
「戸棚ん中にないかい、マッチの傍へ入れて置いたつもりだが」
 源一は、二匹の蠅が糸に引ぱられて腰を曲げ曲げ歩いて行く商標を張った小箱を持って戻った。彼は、ねばつく液をぬりつけた二寸幅に三尺もある薬紙を、電燈の処へ吊下げた。
 今日の晴天を嬉しがっているのか、孵《かえ》った蠅の若者達がこの世万歳と遊んでいるのか、追いつ追われつ敏活に翔び廻っているうち、一匹の蠅がいきなり薬紙にぶつかった。ジゥージゥー翅をならして飛び去ろうとするがもう駄目だ。源一がその様子を眺めているうちに、更に一匹くっついた。人間の子供が、夢中で鬼ごっこをし、「いやあ」と逃げ出すはずみに溝へころげ込むように蠅共は、ついと逸れる拍子に、紙へぶつかる。忽ち五六匹の蠅がとれた。どれも、充分育ち切っていないと見え、弱く、ほんの一寸翅を動しただけで、凝っと静に死んだように成ってしまう。源一は、面白いような、はかなく哀れなような気持がした。
 彼は二階の部屋へ引とるつもりで立ち上った。ふと、茶箪笥の擦硝子の隅に一匹、これは途方もなく強そうな蠅がのそのそしているのが目についた。体の大さなど、他のの三四倍あった。肢や腹に微細ながら黒く剛い毛が生え、蠅の世界の熊坂長範というようだ。――
 源一は、凶猛そうなその姿から一種動物的な挑戦慾を刺戟さ
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