い衿をかきあわせる。
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王 わしはさっきからもういつもになく永い間考えたのじゃ、
一つ事をしみじみとのう。
わしのいつもの頭は今日よりは賢くてあった筈じゃが今日はどこの隅をせせっても、
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あやまれ
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と不吉な声で申すより考えが顔を出さぬのじゃ。
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あやまれ
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と申すのじゃ、法王に――
わしの生れて初めてきいた言葉、今までに一番わしをおびやかいた言葉なのじゃ。
頭奴は斯う申し居る、
只謀じゃほんの一っ時の――
したがわけもないのに只あやまる――何と云う意志のない事じゃ。
意志[#「志」に「(ママ)」の注記]の悪いまま母に育てられた可哀そうないじけた子のあやまれと云わるるがままに震える声で、
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母《はは》様、御免
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と云うと同じほどのわけのわからぬ不甲斐ない事じゃ。
まま親が育てた子の不甲斐ないのは同情もいたさりょうが、王の不甲斐ないのは只世のもの笑となるばかりの事じゃ。
若しわしが、
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あやまりまするじゃ
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と一言申せば、あらゆるそしり、あらゆる下げすみをだまって聞かねばならぬのじゃ。
わしの母御はわしを育てるに心をお用いなされた、寒中の寒に堪ゆる事も暑さに堪ゆる事も又はせわしい仕事にたゆる事をお教えなされたのじゃ。
しかし、そしりをうけ、下げすみをうけた折にようこらえる術《すべ》は教えて下さらなんだ。又その様な汚らわしいものをよううけいでもすむわしだとお思いなされであったかも知れぬ、……
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粉雪のサラサラ云う音はやんで本降りにソクソクとつもって行く。
遠くの方で――それでも城の内でかすかに俗謡をうたって居る声と笛の音がする。
王の声と様子は段々重くなやまし気になり時に吹く風に歌の声と笛の音は折々とぎれてはまた続く。
燈火が大変弱い光線になって三つのまどからどっかによどみのある青白い光線がさし込む。
王はしっかり右の手で左の腕を握って一箇所を見つめる。
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王 あやまる?
いかにも口惜しい、事じゃ。
我と我が身を雲を突く山の切り崖《ぎし》からなげ出いて目に見えぬほど粉々にくだいてしまいたいほどじゃ。
今までによう味わなんだ、
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あやまる
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
と云う事を経験せねばならぬ時になったのじゃ。
わしは今まで、
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あやまる
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
と云う言葉さえ聞くのをようこのまなんだ。
それにかかわらず、その言葉の響きを一つ一つ聞き自らその味をなめて見ねばならぬ時になったのじゃ。
わしはなやましい折も気の狂わぬ頭と体をもって居る。わしの勇気は最後の勝利を得ようためにこのいまわしい思いも致して見るがよいのじゃとしり押し致いて居る。
そうじゃ思い切って、あやまるのじゃ。法王に謝すと思えばこそ、腹も立つ。わしのこの尊い頭に少し許りでもいまわしい思いをいたさせた事を己の頭に謝するのじゃと思えばよいのじゃ。
最後の勝を得るためなのじゃ。
謝したものが愚者じゃ負者だとは定められぬものじゃと云う言葉をわしが云い始める様にするのじゃ。
しがいのある事をすれば敵が一人ふえ、立派なもののうしろにはいつもみじめな影のさすのはきまった事なのじゃ。
わしはこれから「カノサ」に参って法王に会うて参らねばならぬ。
只わしを偉大なものに致すためにのう。
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王は長椅子によって深い溜息をつきながら小さくまたたく燈火を見ながら極く低くつぶやく。
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[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
王 わし自身のためじゃ、
最後の勝利を得るためなのじゃ。
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首をたれて右の手でそれを支う。
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[#地から1字上げ]静かに幕
第二幕
第二場
場処
イタリー、サレルノの一農家(法王の仮居する家)
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景 舞台の略《ほぼ》中央に、貧しいながらも白い清潔な帳を垂れた寝台が置いてある。
その囲りには古い家具
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