宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鼈甲《べっこう》
−−

「――ただいま」
「おや、おかえんなさいまし」
 詮吉が書類鞄をかかえたまま真直二階へあがろうとすると、唐紙のむこうから小母さんがそれを引止めるように声をかけた。
「――ハンカチをかわかしておきましたよ」
「ああそうですか……ありがとう」
 詮吉は、母娘二人暮しのこの二階に、或る小さい貿易会社の外勤というふれこみで、もう三ヵ月ばかり下宿しているのであった。
 詮吉は唐紙をあけ、倹約な電燈に照されている茶の間に顔を出した。
「ひどい風でしたねえ、さあ、どうぞ一杯」
 古い縞銘仙のはんてんを羽織り、小さく丸めた髪に鼈甲《べっこう》の櫛をさしているお豊が、番茶をついで長火鉢の猫板の上へのせた。キチンと畳んだ二枚のハンケチが、これもまた猫板のところに揃えてある。
 詮吉は、外套の裾を畳にひろげて中腰のまま、うまそうに熱い番茶を啜った。
「きよ子さん、るすですか」
「ええ。おひるっから一寸五反田へやりましてね。――のん気な娘《こ》だから、いずれゆっくりして来るんでしょうよ」
 主人の本田権十
次へ
全9ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング