田の青鬼と綽名された槍術家だった由。息子は体が弱くて、父である青鬼先生に佐分利流の稽古をつけられて度々卒倒するので、これは武術より学問へ進む方がよかろうということになって、二十歳前後には安井息軒についていたらしい。やがて洋学に志を立て、佐久間象山の弟子になって、西洋砲術の免許を得たりしている。洋学を習いはじめたのは三十四歳、手塚律蔵という人が先生であった。千賀子と云う祖母がよく、これでお前、私だって祖父さまのお手伝をして英語を昔は知っていたもんだよ。鵞鳥の太い羽根の先を削ってペンをこしらってね。礬水《どうさ》びきの美濃紙へ辞書をすっかり写したものさ、と云っていたが、それもこの時代の夫婦の一日の光景であったであろう。何かの儀式のとき、どうしても洋服にズボンがいるということになった。仕様がないから、俄に私の繻珍の丸帯をほどいてズボンにしておきせしたよ、こんなこともある。如何に律義な祖父でも自分一人繻珍のズボンでは困ったろう。仲間がきっとあったにちがいない。細君の丸帯から出来た繻珍ズボンをはいて、謹厳な面持で錦絵によくある房附きの赤天鵞絨ばりの椅子にでもかけていただろう祖父の恰好を想像すると
前へ
次へ
全9ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング