とりまきにかこまれたままで示されている祖父への親愛をそぐのであった。
ずっとそういう心持が流れていたところこの間或る機会に、明治初年の年表を見ていたらその中に『明六雑誌』というものがあり、福沢諭吉、西周、加藤弘之、津田真道等という顔ぶれに交って祖父の名が出ていた。『明六雑誌』というものは明治七年三月に第一号が出て翌八年十一月四十三号まで出して廃刊になった。この『明六雑誌』第二十五号に出た西周の「知説」という論文の一部が、文学の本質、ジャンル等についての西洋学説が日本に紹介された最初のものであったということを本間久雄氏著「男女文学史」で知ったことも感興をひいた。明治七年と云えば福沢諭吉は四十一歳、「学問のすゝめ」を出した二年後であり、祖父は四十六歳。津田真道が「開化を進る方法を論ず」、加藤弘之「国体新論」、西周は「知説」のほかに「致知啓蒙」、福沢諭吉は「文明論の概略」、祖父は明治八年に「泰西史鑑」というものを独・物的爾著から重訳して出している。
いずれも当時の進歩的学者であったし、年輩も既に四十歳を越した人々がそれだけ心を合わせて兎に角一つの啓蒙雑誌を発刊したところ、何とも云えぬ明治
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