繻珍のズボン
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)礬水《どうさ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年三月〕
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 父かたの祖母も母かたの祖母も八十を越えるまで存命だったので、どちらも私の思い出のなかにくっきりとした声や姿や心持ちを刻みのこしているが、祖父となると両方とも大変早く没している。
 父かたの祖父は私が生れた時分、もう半身の自由がきかなくなっていて、床の上に坐ったまま初孫である赤坊の私を抱いて、おなごの子でも可愛いものだなあ、と云ったそうだ。二つ三つの時分、そうやってだかれていて、小さい孫はおしっこがしたくてべそをかき出した。その顔つきでびっくりしたお祖父さんは、耳が遠いものだから孫が泣くにつれて赤く塗ったブリキの太鼓を叩き立てる。孫はいやが上にも泣きしきって、とうとうお祖父さんの膝は洪水になってしまった。それで初めておー、お運、お運とあわてたお祖父さんが祖母を呼びたてたというような話もきいている。
 そんな話は、顔をまるで覚えていないこの祖父の写真をも懐しさで眺めさせるのである。
 母かたの祖父は、性質もその生涯も父かたの祖父とは全くちがった。御一新、明治という濤は、二人の祖父の運命をもきつく搏ったのであるが、そのうけかたが、東北の官吏生活をしていた父かたの祖父と、佐倉藩で江戸暮しをつづけていた母かたの祖父とでは大変に異っている。特に弘道会という国粋的な道徳団体を創った人として、物心づいてから私たちの生活の中へあらわれて来る祖父の名は、私たちにとってしたしいうちのお祖父さんと云うよりもいつも一人の道学者めいたきつい印象を伴った。大きい墓にも西村泊翁という下に先生之墓とかかれている。そして、その墓のある寺にはなくて別の寺に一つだけとり離して立てられてある。
 小さい時分はよく祖母につれられてこの墓詣りをしたが、千賀子という名であったその祖母は、この墓に向ってさえ何となく恐縮したような表情で、丸い石の手洗鉢の水を新しくするのも、どこか生きている人にきせた袴の襞を畳の上へ膝をついて直してやっているような様子であった。お墓としてもこわい白髯の表情と結び合わされた。女学校の女先生が或る時小さいことで私に注意したとき、その祖父の名の下にやはり先生をつけて呼んで、そのお孫さん
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