なのですからね、という意味の責任を負わすようなことを云われた。そのとき感じた重苦しい心持はきわめて生々しいものであった。そして、祖父を親しみなく遠く感じる思いがまさった。この祖父が僅か三つばかりの孫娘を見て、この子はよくなるか、わるくなるか、どっちかだ、と云うようなことを云った言葉を、母がまた私が自分の気に入らない時に限って持ち出し、さすがにおじいさまはちがっていた、などと云い云いするそれも、祖父への距離をつくるばかりの結果であった。
数年前に亡くなった母の晩年なども、なまじいそういう祖父の思い出が母のなかに一種の崇拝と一緒にのこっていたために、娘としての情愛だけがすらりと流露せず、現実にはおのずとその愛に結びついて行って、そこにある一定の傾向に支配されることがつのったと思われる。それは、時代の動きの他の極に立つものであったから、母としては彼女の資質の大きさ、感情の独自のあるがままの理解よりも却って狭く作られた精神の境涯に自分を留めたことになって、そこからつくられた苦しみを苦しんだという形ともなった。母のために、それはまことに遺憾な仕儀であった。そう思う私の心は、やはり有形無形の枠やとりまきにかこまれたままで示されている祖父への親愛をそぐのであった。
ずっとそういう心持が流れていたところこの間或る機会に、明治初年の年表を見ていたらその中に『明六雑誌』というものがあり、福沢諭吉、西周、加藤弘之、津田真道等という顔ぶれに交って祖父の名が出ていた。『明六雑誌』というものは明治七年三月に第一号が出て翌八年十一月四十三号まで出して廃刊になった。この『明六雑誌』第二十五号に出た西周の「知説」という論文の一部が、文学の本質、ジャンル等についての西洋学説が日本に紹介された最初のものであったということを本間久雄氏著「男女文学史」で知ったことも感興をひいた。明治七年と云えば福沢諭吉は四十一歳、「学問のすゝめ」を出した二年後であり、祖父は四十六歳。津田真道が「開化を進る方法を論ず」、加藤弘之「国体新論」、西周は「知説」のほかに「致知啓蒙」、福沢諭吉は「文明論の概略」、祖父は明治八年に「泰西史鑑」というものを独・物的爾著から重訳して出している。
いずれも当時の進歩的学者であったし、年輩も既に四十歳を越した人々がそれだけ心を合わせて兎に角一つの啓蒙雑誌を発刊したところ、何とも云えぬ明治
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