社会の現実のなかでは、特別この点が両性相剋をもたらす因子として大きい役割を演じていることは疑えない。男女相剋の図どりも、日本ではストリンドベリーのそれとは全く異った地盤の上に発生している筈ではないのだろうか。
 そこから云えば、一郎がたとえ「一撃に所知を亡う」ことに主観の上で成功したとしても、作者が彼とともに掴もうとする人間本心の課題としての相剋は、客観的には未解決のままにおかれざるを得ない。
「行人」の中で一郎が道徳に加担するものは一時の勝利者であり、自然に立つものは永遠の優者であるということを男女のいきさつについて云っている。漱石の作品のなかでは、偽りを未だ知らない若い女の可憐さが才走った女たちと対比的に描かれているが、人妻となっている女が、周囲と自分の偽りを捨てて本心に生きたときは「それから」の代助に対する三千代の切迫した姿となり、「門」の宗助により添う、お米の生活となって現われているところも、何かを私たちに考えさせる。しかも漱石は、そのようにして自然に立った一対の男女に対していつも何かの形で加えられる烈しい復讐を見ている。男女のいきさつでは自然に立ったつもりでも遂に我が心に対し
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