壺井栄作品集『暦』解説
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)扶《たす》けた
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(例)[#地付き]〔一九四九年十月〕
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小説をかくひととしての壺井栄さんが人々の前にあらわれたのは一九三八年(昭和十三年)の末のことであった。この集にはおさめられていない「大根の葉」という作品をよんだ人々は、これまでの婦人作家の誰ともちがった気質と話しぶりとをもっている一人の婦人作家をそこに発見したのだった。つづいて「暦」が栄さんの作家としての力量を動かしがたいものとして示した。
作品集「暦」の出版記念会が一九四〇年(昭和十五年)の春にもたれたとき、テーブル・スピーチに立った人々は、云い合わせたように、壺井栄さんの温く明るく生活の営みを愛して生きぬいてゆく人間としての実力を高く評価した。同時に、ある人は、壺井栄さんがこの頃小説をかき出したにしては、非常に技術がしっかりしているのを、一つの不思議として話した。
昭和十三年―十五年という年は、一方に戦争が拡大強行されて、すべての文化・文学が軍部、情報局の統制、思想検事の監視のもとにおかれるようになりはじめた時代だった。これまでの文学が、しかけていた話の中途でその主題をさえぎられたように方向を失い萎縮しはじめた時期だった。その半面に昭和十四年は、特に婦人作家たちの活躍した年として特徴づけられた。その原因について、男の文学者の或る人は、女性の社会感覚がせまいことがかえって幸して、主観のうちにとらえられている主題を外界に煩わされずに――荒々しい社会性に妨げられずに一意専念自分の手に入った技巧でたどってゆくから、この文学荒廃の時期に、婦人作家は思いがけない花を咲かせた、と解釈した。
壺井栄さんが、偶然そのころから小説をかき出したというのは、やっぱり、この婦人作家も社会性がよわくて、女の作家という特殊地帯であらい風をさけられたからであったのだろうか。事実は、全くその反対である。壺井栄さんが小説をかいたのは、「大根の葉」がはじめてでもなければ「暦」がはじめてでもなかった。栄さんの小説勉強は思いつきのものではない。詩人である壺井繁治さんが、プロレタリア文化運動のために投獄されていた留守のころ、何かの雑誌で栄さんの書いた短篇をよんだことがあった。「財布」という題であったように思う。働いて娘と暮しているつましい若い母が、一ヵ月の労苦のかたまりである月給を入れたまま財布を失った事件がかかれていた。若い母親のつとめさきである下町の時計問屋の生活の内部の情景、困難や災難にも明るさを失うまいとして娘と生きたたかっている妻、母の思いも克明に描かれていた。栄さんは、おそらく現実にそういう経験をしたことがあったのではなかったろうか。そして、獄中の繁治さんのためにも、その小説が印刷されるように努力したのではなかったろうか。
その短篇は、主題は働いて生きる女性の積極な面をとらえていても、表現は一般的な写実の範囲にあった。ところが、それから四五年したら、「大根の葉」「暦」と、壺井栄さん独特の作風をもつ作品が生まれはじめた。これは、壺井栄さんが婦人作家のおちいりやすい技巧をこねまわした工夫の結果ではなかった。わたしは、むしろ、人間として女としての壺井栄さんが、ある意味で腹を立て、地声で、自分の言葉と云いまわしで、素直で自然な多くの人々はどう生きるかということについてすぱすぱとものを云いはじめた結果だと思う。さもなければ、「財布」から「大根の葉」「暦」への決定的な表現の飛躍が理解されない。ますます息づまって来る当時の戦争万能の社会の空気と、そのなかでからくも情緒的な何かを保とうとしているいわゆる女流の文学。そのころはプロレタリア文学の運動も挫かれていた。壺井栄さんは、『戦旗』の発行や発送のためには大きい見えない力として扶《たす》けた人だった。良人や息子を獄中に送った女の人々のよい相談あいてであるばかりでなく励ましてであった。子供のうちから体で働いて生きながら、そのような人生の中に美しいもの、愛くるしいもの、素朴で、うそのない親愛なものの存在するのが、働く人々の宝であることを感じて生きて来た婦人の一人である。自身、人間の生活に何かのよろこびをもたらさずにはいられない栄さんが、世間も文学もあの息苦しさと人為的な形にしいられるなかで、こらえ切れなくなった息を一つ深く深く吸いこみ、さて、と立って襷をかけ、動き出したのが、「暦」そのほかこの集にもおさめられたいくつもの作品であったのではないかと思う。「暦」にしろ、「女傑の村」にしろ、盲目の女の子を語る「赤いステッキ」、子供の労働を、ひとりでにいつか遊戯と絡まり合う自然の姿で描いた「桃栗三年」、不幸だ
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