った女がみかん畑の日雇い婆さんで暮している晩年に、ふとあったかい人生の道づれを見出す「三夜待ち」、それぞれの題にふくらみと生活性がこもっているとおり、すべてこれらの物語は、読者のこころにふれ、人生は生きるに価するところである思いを与える。だが、壺井栄さんは、ただたくまないたくみさで、あれからこれへと人生風景を語っているのではない。「女がこんな風なのは一体どこが悪く、何がそうさせるのだろうか」(「暦」第一一章)壺井栄さんの全作品を貫いて、この疑問がつよく、くりかえして提出されているのである。女がこんな風なのは、という言葉とその意味とは、社会がこんな風なのは、の同義語としてあらわされてもいる。(「赤いステッキ」及びここに入っていない「廊下」など)
一九四五年八月からあと、日本の社会生活には女がこんな風なのは、つまり社会がこんな風なのは一体どこがわるくて、何がそうさせるのだろう、という作者と読者に共通な課題を解決して行こうとして、働く人民の政党・労働組合・文化団体などができた。壺井栄さんのこの時代の作品の多くは、人民が自分たちの生存を発揮してゆくために必要ないろいろの組織をもてなかった時代のものであった。きょう、人民は組織をもつようになった。しかし、それを持たすまいとして日夜活動をつづけている権力がある。その権力は金の魔力で組織をこわしさえもする。それとたたかい、不幸から自分たちの運命を救い出してゆくのが、わたしたちの生活の切実な実体だとすれば、壺井栄さんのこの作品集にたたえられている働いて生きるものの実際から苅りとられて来ている智慧、ものわかりよさ、決断、きたないことをきらう精神は、人民生活のもつよりよい素質のいくつかとしてはっきり評価されていい。よい素質だけで人民は歴史の主人となり得ない。組織に属し一定の認識をもつだけで、或はそういう人々だけで幸福の道をきりひらくことも出来ないであろう。現代の歴史がもっているこの機微についても、これらの作品は読者に考えさせるものをもっているだろうと思う。
[#地付き]〔一九四九年十月〕
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:壺井栄著「暦」解説、光文社日本文学選
1949(昭和24)年10月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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