新政府は、その本質において、地主と同盟したブルジョア政府だった。三月以来の「共和主義」政府は、王朝復興の意図すら持っていた。
 臨時政府は、戦争を中止しなかった。「最後の勝利まで」彼等のスローガンはこうだった。全ロシアの企業の資本は、依然として資本家の資本である。社会革命党とメンシェビキは地主の財産没収を放棄した。
 殊に農民を苦しめたのは帝国主義戦争であった。「戦争から脱せよ」これが、窮乏のどん底から農民があげた心からの叫びであった。そして、それは臨時政府のブルジョア支配――社会革命党とメンシェビキの権力を倒すことを必要とした。プロレタリアートは、ブルジョアジーとの決定的闘争の舞台に登場して来た。ツァー[#「ツァー」に×傍点]を倒した三月革命は、この舞台をいわば掃ききよめたのだ。
 レーニンの率いるボルシェビキは、臨時政府の戦争継続に反対して労農大衆を次第に強く広く結集して闘った。ボルシェビキ党は工場委員会、ソヴェト、その他の団体のうちへ、「すべての権力をソヴェトへ」のスローガンを掲げて起《た》った。ソヴェトこそ、プロレタリアート・農民の革命的民主的独裁の形態だった。
 ロシアの労農大衆は一九一七年三月から十月に至るまで、深刻に政治的経験をつんだ。この時期は僅か八ヵ月だったが、大衆は大きな政治的教育を革命の息吹きの中で与えられた。この時期に労働者、農民は一層革命化して特に農民は社会革命党から離れて、土地と自由の真の味方、ボルシェビキの側に結合して来た。
 この期間は二つの党派が、労働者・農民の多数を自分の側に得るために闘ったのだ。即ち小ブルジョア民主主義と、ボルシェビキ的なプロレタリア民主主義の決戦の時期であった。そしてロシアの労働者・農民は、ボルシェビキこそ、勤労大衆の民主主義の前衛であることを知った。
 三月革命から、十一月革命を過ぎて一九一八年三月頃までの全露ソヴェト大会の代議員数に現われた次のような二つの勢力の消長は、ボルシェビキの勝利の方向を示している。
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第一回 一九一七年六月
 ボルシェビキ側    反ボルシェビキ
  一〇〇名        六八一名
第二回 一九一七年十一月
  三九〇名        二五九名
第三回 一九一八年一月
  四三四名        二六七名
第四回 一九一八年三月
  七三二名        
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