。それは一九一二年四月のレナの流血の大衆的大罷業以来、特に顕著になり、一九一四年の前半期には約二百万人(一九一〇年の二十倍)が罷業した。
メンシェビキが、闘争綱領を「団結の自由」にまで引き下げているとき、ボルシェビキは、三つの基本的スローガンを正しく守り、益々労働者階級に対する革命的指導を広く強化した。闘争の困難の時期に、状勢にかこつけて、綱領の引き下げを行うことは各国の日和見主義者の特徴である。一九一二年、プラーグでボルシェビキの特別の党指導部が成立して以来、特に議会フラクションの指導に忽ち現われた如く、党の独自的指導は強まった。
一九一四年に第一次世界大戦がおこり、ツァーのロシアも、勤労大衆の若い働き手を引ずり出して、この帝国主義戦争に参加した。今日、日本のブルジョア・地主的天皇制[#「天皇制」に×傍点]支配が、帝国主義戦争によって「血路」を求めようとしているように、当時のロシア帝政も戦争を望んでいた。日本帝国主義が、今日東洋における最も野蛮な番犬であったと同様に、ツァーリズムは東欧のそれであった。この番犬は、国内の野蛮な封建的抑圧、収奪を、対外的には略奪戦争へ向けた。又戦争参加は、ロシア資本主義を支配していた、フランス、英国の金融資本の意志であり、ツァー[#「ツァー」に×傍点]は金融資本と地主の代表者として「市場」バルカンの収奪を熱望していたのだ。
帝国主義戦争開始以来、ボルシェビキ中央委員会は、「自国帝国主義政府の敗北」「戦争を内乱[#「内乱」に×傍点]へ」のスローガンを掲げて、社会排外主義者、祖国擁護論者プレハノフ一派の裏切りと徹底的に闘争した。
世界戦争中に、二百五十万のロシアの兵士が戦死し、約五百万人が負傷した。戦争の進行とともに、農村の働き手が大部分奪われ、家畜は勝手に徴発され、生産は低下し、生活は破滅的に窮乏した。物価は暴騰して、勤労大衆の生活を苦しめた。戦争は資本家に戦時利得を与えるだけの「好況[#「好況」に傍点]」をもたらしたにすぎなかった。支配階級自体の中に多くの混乱が生じた。
かくて、階級闘争は必然に尖鋭化した。闘争の尖頭には、革命的プロレタリアート、ボルシェビキが立っていた。ボルシェビキの反戦闘争は、大経営の中に確個とした根を下して進んだ。そして革命的情勢が急迫をつげてきたのである。
一九〇五年の新しい発展として、一九一七年三
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