児が今朝、樫の木の彼方から、
「や、ポチがいらあ」
と叫んで、連れ戻した。――私と倶に暮しているYは、女ながらおかしい心をもっていて、往来で犬に出会うと、
「S、エス、エス」
と大きな声で呼ぶ。犬は尾を振らぬ。
「おや、Sじゃなかったか。ポチ、ポチ、――ポチふうむ、ポチでもないのか」
 夜、暗く長い桜並木の間を家へ帰る途中、よく犬と道づれになる。彼女は、そのように、道づれになった犬と問答するのであったが、この時ばかりは、ポチが本当にポチであったから、呼ばれたポチも他人とは思えず、つい一晩泊ってしまったのだろう。
 そのポチの、鼻の先に我家を眺めながら寝込んだどこやら呑気な性質が愛嬌で、その後も、思い出してはやって来た。
 ポチが潜るのも面倒がる程、土用の間に裏の夏草は高くなった。コスモスの葉も見える。あの根方の茂みには蛇も昼寝するであろう。
 蓬々とした青草の面に、乾いた、何処やら白いような光線が反射し始めた。七月に吹いていたのとは違った風回りで、風が室を吹きぬけた。風のない午後四時、蝉は鳴きしきっているが、庭の芝、松の木などの間から漂う香が、何か秋らしさで私の脈搏を速める。
 朝、私
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