こうとした勇敢な若い婦人たちは、衒気を自覚しないで行動した頃であった。それにしろ、何か当時の漱石の文体が語っているようなある趣味で藤尾その他は描かれている部分が少くないように思える。最も面白いのは、漱石自身が、たとえば「虞美人草」の中で藤尾と糸子とを対比しつつ、自身の愛好は、友禅の帯をしめて日当りよい中二階で何の自主的な意識もなく、兄と父とに一身を托して縫いものをしている糸子により多く傾けている点である。
 十年間の多産豊饒な漱石の文学作品を見渡すと、ごく大づかみないいかたではあるが、藤尾風な趣味的・衒学的女は初期の作品に現れただけで姿を消し、藤尾の性格の中から、ゴーチェの「アントニイとクレオパトラ」を愛読するロマンティックな色彩をぬき去った女の面が、次第に現実的に発展させられて来ている。
 鴎外の作品が日本の近代文学として不動に保っている意義の一つは男と女と、その自我の量とねばりとにおいて同等のものを認めたところである。しかしながら漱石は当時の社会的・個人的な環境によって女のもつ自我の内容、発露の質と、男のもつ自我の本質・形態との間に、裂けて再び合することないかのように思わせる分裂、
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