歴史の落穂
――鴎外・漱石・荷風の婦人観にふれて――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)傷《きずつ》く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)身を[#「身を」に傍点]落す
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 森鴎外には、何人かの子供さんたちのうちに二人のお嬢さんがあった。茉莉と杏奴というそれぞれ独特の女らしい美しい名を父上から貰っておられる。杏奴さんは小堀杏奴として、いわば自分の咲き出ている庭の垣の彼方を知らないことに何の不安も感じない、自然な嬉々とした様子で身辺の随筆などをこの頃折々発表しておられる。
 お姉さんの茉莉さんがまだ幼くておさげの時分、私は何かの雑誌でその写真を見たことがあった。写真であるから色はもとより分らないが、感じで赤いちりめんと思われる衿をきちんとかさねた友禅の日本服の胸へ、頸飾のようなものがかかっていた。おさげに結ばれている白い大きいリボンとその和服の襟元を飾っている西洋風の頸飾とは、茉莉という名前の字がもっている古風にして新鮮な味いとともにたいへん私の記憶にのこった。年月のたった今あの写真の印象を思いおこして見るとあの一葉の少女の像には当時の日本の知識階級人の一般の趣向を遙にぬいた御両親の和洋趣味の優雅な花が咲いていたのだと思われる。
 森さんの旧邸は今元の裏が表口になっていて、古めかしい四角なランプを入れた時代のように四角い門燈が立っている竹垣の中にアトリエが見えて、竹垣の外には団子坂を登って一息入れる人夫のために公共水飲場がある。傍にバスの停留場がある。ある日、私がその赤い円い標識のところにぼんやりたたずんでいたら、森さんの門があいて、一人の若い女のひとが出て来た。そして小走りに往来をつっきってはす向いの炭屋へゆき、用事がすんだと見えてすぐまた往来を森さんの門に戻って来て戸がしめられた。それは昔の写真の少女の面影をもっていた。美しい人で同時に寂しそうであった。それからまた別の日に、私は団子坂のところで流しの円タクをひろった。ドアをしめて、腰をおろし、車が動き出したと思ったら、左手の窓のすぐ横のところには一人の若い女のひとの顔が見えた。かすかな笑いの影が眼のなかにあって、静かにこっちを見ている。再び私はその顔を、ああと写真の少女の面影に重ねて思い、そちこちに向って流れる感情を覚えた。だがそれなりに走りすぎてしまった。
 本年の夏は、例年東京の炎天をしのぎ易くする夕立がまるきりなかった。屋根も土も木も乾きあがって息づまるような熱気の中を、日夜軍歌の太鼓がなり響き、千人針の汗と涙とが流れ、苦しい夏であった。長谷川時雨さんの出しておられるリーフレットで、『輝ク』というものがある。毎月十七日に発行されているのであるが、八月十七日の分に、「銃後」というきわめて短い感想を森茉莉氏が書いておられた。それは僅か、二三枚の長さの文章である。「私達はいつの間にかただの女ではなく『銃後の女性』になってしまっていた。一朝事があれば私も『銃後の女性』という名にぴったりした行動は取れなくても、避難の時までものを見、感じ、書く、という形で銃後を守る心持はあるが」と、後半では物質に不自由がなくて生きる苦しみなぞと言うことは申訳のない事のようだが、「生きている事の苦しさがますますひどくなる」その苦しみに疲れてかえって苦しみを忘れたように感じられる瞬間の心持、また苦しさの中にあっても「少女のように新鮮に楽しく生きて行くという理想に少しでも近づきたい」それは書くことを機会としてゆきたいという気持が語られてあるのであった。
 森さんのこの文章をよんで、私はあの日、門をあけて出て来た女のひとが、やっぱり森さんであったろうという確信をたかめた。それから、あの日、車の中の私に向って目にとまるかとまらないかの笑みをふくんだ視線を向けていた女のひとも。あの女のひとの趣味や華やかさを寂しさに沈めて、それなのに素直でいるような風情は、森さんの短いうちに複雑な心のたたみこまれている文章をよんで、はっきりとうなずける。現代の女は、社会のさまざまの姿に揉まれ、生きるためにたたかっているのであるが、森さんの現実の姿と文章の姿とは偽りない率直さで、今日の女の苦悩の一つの姿を語っている。
 森茉莉氏のふぜいある苦しみの姿とでもいうようなものの中には、よい意味での人間らしい教養、落付き、ゆとりというようなものがあって、それらは生活の上にある余裕からも生じているが同時に性格的なもので、しかも一応は性格的といわれ得るものに濃くさしているかげがあるように思われる。明治の末から大正にかけての社会・思想史的な余韻とでもいえようか。
 私たちは実に痛烈に露出されている今日の矛盾の中に生き明日へよりよく生き抜かんとしているのであるけれども、
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