日本では今日の女の上にただ今日の陰翳がさしかかっているばかりでない。非常にのろのろと傾きかかり、目前だけを見ればますますその投影がたけを伸ばして来つつあるかのようにさえ感じられる昔の西日の落す陰を身に受けていない者はないのである。
 森鴎外という人は、子供を深く愛し、特に教養のことについては無関心でいられなかったらしい。真理と美との人類的遺産を十分理解し、それをよろこび、それに励まされて人間らしく生きる力を、子供らが持つことを希望していたらしい。
 鴎外の女性観というものは、従って当時の現実生活にある日本の女の生活諸相に対して決してあきたりていなかったであろう。未来の女の生活ということについて、どのような拡大と波瀾と活溌な女らしい活力の流露とを期待されていただろうか。茉莉や杏奴という日本語として字の伝統的感覚においても美しくしかもそのままローマ綴にしたとき、やはり世界の男が、この日本名の姓を彼らの感情に立って識別できるように扱われているところにも、私は鴎外の内部に融合していた西と東との文化的精髄の豊饒さを思う。この豊饒さは、ある意味で日本文化の歴史の中に再び同じ内容ではかえり来ることのないものである。いわば明治という日本の時代の燦光であった。けれども、この豊饒さの中に、どのように深く、どのようにつよく、日本的な矛盾が埋められていたかということは、娘である茉莉氏が、今日、ますます多難な女の道を行きつつある感情の底で、おのずからうなずかれていることではなかろうか。
 森鴎外のこと、また茉莉氏の内部発展のことについてはしばらくふれず、近頃、永井荷風の古く書いたものをちょいちょい読んで私は明治四十年前後の日本の知識人の感情というものの組立てを女として実に興味ぶかく感じた。
 荷風は、ロマンティックな蕩児として大学を追われ、アメリカに行き、フランスに着し、帰朝後は実業家にしようとする家父との意見対立で、俗的には世をすね、文学に生涯を没頭している。
 日露戦争前後の日本の社会、文化の水準とヨーロッパのそれとは驚くべきへだたりがあったから、この時代、相当の年齢と感受性とをもって、現実生活の各面に、自分の呼吸して来た潤沢多彩なヨーロッパ文化とにわか普請の日本のせわしない姿とを対照して感じなければならなかった人々の苦しい、嫌悪に満ちた心持は、荷風の帰朝当時の辛辣な作品「監獄署の裏」「冷笑について」「二方面」「夜の三味線」などにまざまざとあらわれている。
 時代はすこし前であるが、漱石もロンドンから帰った当時は、同じような苦しみを深刻に経験している。漱石は、だが一身上の必要から、やっぱりいやな大学にも出かけなければならず、そのいやな大学の講義に当時の胸中の懊悩をきわめて意力的にたたきこんで、彼の最大不機嫌中に卓抜な英文学史と文学評論とを生み出した。
 荷風の方は、家父もみっともないことをせずひっこんでおれといわれ、衣食の苦労もないところから、その内面の苦痛に沈酔した結果、ヨーロッパの真の美を、その伝統のない日本、風土からして異る日本に求めたとしてもそれは無理である、ヨーロッパ文学の真価も、実にきわめて少数のもののみが理解し得るのであるとして、自分は、ひとりローマをみて来たものの苦しくよろこばしい回顧、高踏的な孤独感を抱きつつ、真直に日本の全く伝統的なものの中に、再び新たに自ら傷《きずつ》くロマンティシズムで江戸の人情本の世界に没入して行ってしまったのである。
 日本の文化と西欧の文化の接触の角度に、いつも何かの形であらわれて来ているというリアクションは、日本文学史の一つの特徴となる相貌である明治、大正の期間に、これが微妙に相関しているのみならず、現代に到って、この点はいっそう複雑化されている。そのあらわれがたとえば一人の作家横光利一氏の個人的な芸術の消長に作用しているばかりでなく、昨今では文化統制の傾向において強められ、さらにその傾向が一般の文化人が世界の文化に対して抱いている感情とは必ずしも一致していない状態にまでおかれている。
 荷風のロマンティックな、芸術至上主義風なリアクションは、ヨーロッパ文化の伝統はそのまじりもののない味いにおいて、日本の文化の伝統はまたヨーロッパとは別個なるものとして、あくまでペンキで塗られざる以前の姿において耽美したいという執着によっている。
 いわゆる世にそむき、常識による生活の平凡な規律を我から破ったものとして来ている荷風が、女というものを眺める眼も特定の調子をもっていて、良家の婦女という女の内容にあきたりないのはうなずけることであると思う。荷風の年代で周囲にあった良家の婦女子というのは、恐らく若ければただの人形が多かったであろう。やや世故にたけたといわれる年頃では、そういう階級の狭い生活が多くの女の心に偏見と
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