を眺めやっている姿に、ロマンティックな美を見出している。静的ではあるが、人生を何か内部的な緊張をもった光でつらぬこうとする姿が描かれている。「安井夫人」を読む者は鴎外が女に求めていた光りがどういう種類のものであったかをいささか知り得るのである。
 荷風は、ヨーロッパにあってはその婦人観も彼地の常識に従って郷に従い、日本にあってはその婦人観も郷に従い、長いものにまかれる伝統に屈している如くなのである。
 夏目漱石が、その恋愛や行動において積極的自発的、不羈《ふき》な女を描くとき、それは「夢十夜」などのようなヨーロッパを背景とするロマンティックな空想の世界であったというのは、何と興味ある事実であろう。また、「虞美人草」「三四郎」などの中に、いわゆる才気煥発で、美しくもあり、当時にあって外国語の小説などを読む女を、それとは反対に自然に咲いている草花のような従来の娘と対置して描いているのは、注目をひくところである。今日の私たちの心持から見ると、漱石が描いた藤尾にしろ、迷羊《ストレイ・シイプ》の女にしろ、どちらかというと厭味が甚しく感じられる。あの時代の現実は、青鞜社の時代で新しい歴史の頁をひらこうとした勇敢な若い婦人たちは、衒気を自覚しないで行動した頃であった。それにしろ、何か当時の漱石の文体が語っているようなある趣味で藤尾その他は描かれている部分が少くないように思える。最も面白いのは、漱石自身が、たとえば「虞美人草」の中で藤尾と糸子とを対比しつつ、自身の愛好は、友禅の帯をしめて日当りよい中二階で何の自主的な意識もなく、兄と父とに一身を托して縫いものをしている糸子により多く傾けている点である。
 十年間の多産豊饒な漱石の文学作品を見渡すと、ごく大づかみないいかたではあるが、藤尾風な趣味的・衒学的女は初期の作品に現れただけで姿を消し、藤尾の性格の中から、ゴーチェの「アントニイとクレオパトラ」を愛読するロマンティックな色彩をぬき去った女の面が、次第に現実的に発展させられて来ている。
 鴎外の作品が日本の近代文学として不動に保っている意義の一つは男と女と、その自我の量とねばりとにおいて同等のものを認めたところである。しかしながら漱石は当時の社会的・個人的な環境によって女のもつ自我の内容、発露の質と、男のもつ自我の本質・形態との間に、裂けて再び合することないかのように思わせる分裂、
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