やることなら女がやってもかまわないとする人である。ヘッダ・ガブラーや人形の家の芝居を眺め「日本にもかかる思想がなくてはならぬと思ったくらいだ」。しかし、彼の現実感情の要素は遙に錯綜した影をもっている。第一、荷風がその美にふける花柳の女たちの生きている世界はどういうものであろうか。彼女たちの身ごなしの美をあるがままに肯定するのであれば、その身ごなしのよって来る心のしな[#「しな」に傍点]をも肯定しなければ、荷風の求める美の統一は破れてしまわなければならない。さらに荷風は男女の恋愛をも、その忍び泣き、憂悶、不如意とくみ合わせた諧調で愛好するのであるから、元より女が、私は愛する権利がありますと叫んで、公然闘う姿を想像し得ない。これらの事情が、荷風の現実としては「婦人参政権の問題なぞもむしろ当然のこととしているくらいである」が、「然し人間は総じて男女の別なく、いかほど正しい当然な事でも、それをば正当なりと自分からは主張せず出しゃばらずに、どこまでも遠慮深くおとなしくしている風がかえって奥床しく美しくはあるまいか」「もし浮む瀬なく、強い者のために沈められ、滅されてしまうものであったならば、それはいわゆる月にむらくも、花に嵐の風情。弱きを滅す強者の下賤にして無礼野蛮なる事を証明するとともに、滅さるる弱きもののいかほど上品で美麗であるかを証明するのみである」という考えかたに到達している。「日本女性の動かすことのできない美は、争ったり主張したりするのではなくて、苦しんだり悩んだりする哀れはかない処にある」と断言している。悋気も女はつつしむべし、と荷風には考えられており、女に悋気せしめる男の側のことは触れられない。その荷風の見かたに適合した何人かの「婦女」がかつて彼の「後堂に蓄え」られたこともあったのである。
 私が、荷風のロマンティシズムを常識的な本質であるとするのは、女のロマンティックな見かたそのものに現れている以上のようなあり来りの特徴にもよるのである。森鴎外は、漱石よりも早く、その青春の開花の時期をドイツで送った。鴎外の婦人に対する感情は、「舞姫」、和歌百首や他の作品の上にもうかがわれるのであるが、鴎外の婦人に対するロマンティシズムは、荷風の受動性とは全く異っている。鴎外は、女がさまざまの社会の波瀾に処し、苦しみ涙をおとしながらなおどこにか凜然とした眼差しを持って立って、周囲
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