動に貢献してゆくいとぐちは多種多彩であってこそ自然である。けれども、どういう門から入ろうと、それが葛《かずら》のからんだ小門からであろうと、粗石がただ一つころがされた目じるしの門からであろうと、あらゆる道が、一つの民主主義文学の広場に合し流れ集まらなければならないことは明らかだろう。理論家は自分としての着眼のモメントに立って、その着眼の筋を辿りつつ大股に、民主主義文学の核心に歩みすすんで、その理論と自分とを、階級的に強壮に発育させなければならない。おのれの第一歩的な着眼に固執して、千たび万たび、その角度からだけものをいい、またはその着眼のために理論の全体的な把握を失うような習癖に陥り、それがやがてジャーナリズムにおけるその人の商標となったりしては、理論家としての成長はまったくすたれてしまう。そして、これまで書いている作家が、そのことでかしこくされないとともに、これから書こうとしているかくれた新鮮なエネルギーの上にかかるかさぶたになってしまうだろう。
 小説部会が「創作をはばむものはなにか」という形で出した問題は、こういう機会に詳細につきつめられていいことではなかろうか。現在の歴史のなか
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