学運動が、民主主義文学の運動として展開される必然は、こういう世界史的な人民的基盤をもっている。そこでは、あらゆる社会階層の、あらゆる生活内容の、あらゆる矛盾をもった精神が、ただひとすじ、人民的生存の要求にせき上げられて、抑えがたい声をあげてゆくわけである。作品は、それが作家の全実感に支えられ肉体的なものであるという意味で、理論的労作にくらべれば、どういう場合でも、自然発生的な要素をもっている。種々さまざまのニュアンスと角度をもって生れる民主的傾向の諸作品を、民主的な人民の歴史の推進勢力である労働者階級の現実と課題にてらしあわせて、それぞれがどういう関係におかれるものであるかを明瞭にし、同時にそのことでそれらの作品をかいた作者たちに、客観的にあらわれた自身の階級性と発展の歴史とのつながりにおけるその在り場所、将来の展望を与えることこそ、民主的理論活動の任務である。
われわれの理論活動は、このたのもしい義務を活溌に果してゆくためには、まだ十分成熟していず、骨格がしっかりしていない。このことが新日本文学会の第三回大会の小説部会の報告に赤裸々に表白された。そして、この報告につづくいくつもの理論部会の報告は、おのずから、小説部会からの訴えが根拠のないものでないことを感じさせたのであった。
今日民主的立場に立つ若い評論家は、新しい作家が成長してくるよりも早い速度と人数とで活動に参加しはじめている。それは、第三回大会で、理論部の報告をした人々のほとんどすべてが、去年の大会にはそういう部署についていなかった新人であったことをみてもわかる。
新しく活動にしたがうようになった評論家は、それぞれにちがいながらある共通な困難をもっている。それは、これらの人々も日本のインテリゲンツィアとして、全人民の一部として、久しい戦争の年々の間、理性的文盲政策のもとに苦しみ、すき間から洩れる光を追うように、自分たちの生存と文学の理性を辛くももちこたえてきたと同時に、マイナスの面もさけきれなかったという事実である。
戦争の年々の絶大なマイナスのために日本の民主化は今日混乱し、独善にはびこられてもいる。作家も評論家も、この混迷からまったく自由にはなっていない。日本の民主主義革命の現在の本質をはっきりつかまないところからおこるブルジョア民主的な自我確立論、または、実際の批評にあらわれたような部分的形象
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