論のなかに作品全体の評価を埋没させてしまうような現象がある。同時に一方には、一つの作品が描き出しているものの社会的客観性を見ないで、作者がとらえている題材の点からだけ、私小説であるとか、そうでないとか論議する機械的な傾向もある。
 とくに今日の日本の現象として注目されることは、多くの若い評論家群が、自身の理論活動によって、これまで抑えに抑えられていた自分というものを存分に働かしてみたい本能的な欲望にうごかされているように思えることではなかろうか。日本じゅうの人民が、八月十五日ののちに、官能として感じたといえるこの欲求を、同じ窒息状態に過した評論家たちがどうして感じなかったことがあろう。これはあるいは意識に潜在する欲求であるかもしれないが、潜在するその力は現実にきょうの理論活動に作用している。過去のプロレタリア文学理論の発展的展開をめざしての努力であるだろうけれども、その発展のモメントは、一人一人の理論家が、自分として着眼した点を主張するところにおかれている傾きがつよい。理論活動も人生的な実感に立たなければならない。それぞれの理論がそれぞれの階級的蓄積と天稟とにしたがって、民主主義文学運動に貢献してゆくいとぐちは多種多彩であってこそ自然である。けれども、どういう門から入ろうと、それが葛《かずら》のからんだ小門からであろうと、粗石がただ一つころがされた目じるしの門からであろうと、あらゆる道が、一つの民主主義文学の広場に合し流れ集まらなければならないことは明らかだろう。理論家は自分としての着眼のモメントに立って、その着眼の筋を辿りつつ大股に、民主主義文学の核心に歩みすすんで、その理論と自分とを、階級的に強壮に発育させなければならない。おのれの第一歩的な着眼に固執して、千たび万たび、その角度からだけものをいい、またはその着眼のために理論の全体的な把握を失うような習癖に陥り、それがやがてジャーナリズムにおけるその人の商標となったりしては、理論家としての成長はまったくすたれてしまう。そして、これまで書いている作家が、そのことでかしこくされないとともに、これから書こうとしているかくれた新鮮なエネルギーの上にかかるかさぶたになってしまうだろう。
 小説部会が「創作をはばむものはなにか」という形で出した問題は、こういう機会に詳細につきつめられていいことではなかろうか。現在の歴史のなか
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