で考えられる民主主義文学の主体が、十九世紀のインディヴィジュアリズムのように単なる個々人の自我ではなく労働者階級であることは、大会でもさまざまの人から明瞭にされた。労働者階級とその同盟者としての農民、それに協同して革命を遂行してゆく小市民およびインテリゲンツィア。民主主義文学の主体をそのように理解すれば、文学評価の基準が、歴史の推進発展の方向に沿って、どういうものでなければならないかということもわかりやすいことであろう。作品に対する評価が非常にまちまちで、小説部会の報告として、作品評価がされなかったということは、根本には日本における民主主義革命の現実と、その文学についての現実の理解が、民主的といわれる作家の間にも混乱していることを語ったと思う。
「創作をはばむものはなにか」という問題に対して、わたしたちは新しい真実の解答を見いだし、民主主義文学理論が創作の溢れだす力を阻むというような誤った先入観をうち破らなければいけない。作品を書こうとするものを、また旧い小説のかんやこつに追いこんではならない。そういうまちがいを結果しないために理論家のしなければならないことは、理論家たちがきょうまだ多分に身につけている「私論的要素」をはやく乗りこえることである。一つ一つの作品を分析し、綜合し、生きた作品として評価しつつ、その作品が日本の人民的民主主義のために歩んでいる道を明確に示しつつ、民主主義文学全運動の広場に向って適切に、やさしくきびしく導く能力をもたなければならないと思う。
「創作をはばむものはなにか」という意味深長な伝統を背後にもっている提疑は、この点からこそ作家と理論家と、双方からの努力で氷解されなければならない。作家が創作の力をたかめ、強固にし、あるいは創作する可能性そのものをさえよろこびをもって自身の日々の間に発見してゆくのは、民主主義文学の鮮明な理論が確立され、個々の進歩的意図をもって書かれる作品が、それぞれの角度と本質とで大なり小なり、前進する歴史の生きたいのちに参与しえたことが客観的に評価され、なっとくされたときである。少くとも民主的な立場に立ってかかれた作品に対して、まったく対立する評価があらわれ、それが、民主主義文学の収穫という大きい眼目に立って一致点を見いだせないというようなことがあるとすれば、それは民主主義文学者の敗北である。
小市民、インテリゲンツィ
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