理論家にとっては一篇の作品を細心に吟味することで、プロレタリア文学として次の発展段階へ、しかじかにありたい、という要望をひき出すことが可能である。作家が、その要望を自身のものとして実感したとしても、作品の現実でそれを具体化することは、必ずしも、作家にとって一二ヵ月の間にゆるされる可能でない場合が多い。とくに、プロレタリア文学において、この点は深い意味をもっていた。プロレタリア文学における作家の成長は、ブルジョア文学の分野にあるように、ただ書きかたのこつ[#「こつ」に傍点]の問題ではないし、独特性の異色の獲得でもないし、ましてただ珍奇な題材の発見の問題ではない。プロレタリア作家は、日本の社会の歴史とともに階級的に成長しなければならなかったのだから。極端な暴圧とたたかい自身の恐怖を克服しながら――。
プロレタリア文学運動で、はじめて日本の作家の一部がこれまでの小説をかくこつ[#「こつ」に傍点]や文学のかん[#「かん」に傍点]以外の客観的なところに自身の創作理論をもつことができるようになった。作家が評論風な執筆をする能力をもってきた。これは、感性的・主観的にだけ流れてきていた日本の現代文学史の中で注目される一|齣《こま》である。そして最も興味あることは、この現象が一人の作家の上に、大きい矛盾としてさえあらわれたことである。たとえば、わたしのように、文学における階級性の問題などまったく知らずに書きはじめた作家が、プロレタリア文学運動に参加したとき、理論的な大すじについての理解と創作活動の実践にくいちがいをおかした。理論めいたことについて、理解が素朴であるだけにむしろ極端に強硬だが、創作は正直に自身の新しい生活経験の蓄積の貧寒さをあらわして、ろくな小説一つもかけないという、当人にとって苦しく、文学史的には興味つきない時期をももたらしたりした。
今日、民主主義文学の運動のなかで、理論的活動と創作活動との統一、有機的な協力は、いっそう重要になってきている。なぜなら、世界の資本主義がファシズムにまで進んだ一九四〇年以来、被害をうける人民層は労働者階級ばかりでなくなった。フランスが反ファシズム運動としての人民戦線、文化擁護運動を世界に提唱したときから、すべての人民層は、インテリゲンツィア、中小工業者までをふくめて、自身の生存権のためにたたかわなければならなくなった。プロレタリア文
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