あるかもしれない。だが、今日の文学が、過去の或る期間においては十分云い切る自信を与えられなかった作者自身のうちに在るそういう社会感情の一面を開放しつつあるという現象は、果して今日の作家の、より高い、人間的・文化的自由の獲得を意味しているのであろうか。
「左翼文学が今日沈潜期にあることを思って喧嘩すぎての棒ちぎりといった疚しさを抱かせられたが」云々と、石坂氏は対象を或る種の[#「或る種の」に傍点]左翼的作家、或は思想運動者の上にだけ置いて物を云っているように見える。けれども日本の左翼運動の歴史的な退潮の原因は単にそういう一群の生活の裡にのみ在ったのであり、又敗北の結果は単にその一群の生活の上にだけ降りかかって終るものであろうか。
 今日作家が一般的に、こういう面でのみ闊達であり得るということについては、慶賀すべきか、或は憤ってしかるべきことなのであろうか。
 大森義太郎氏の「思想と生活」(文芸)には、「麦死なず」に対する批判的感想として、正しい思想はよしんば各個人の実生活における態度と一致していないでも、思想そのものとして、実生活と一致している低俗な思想より価値が高いということを、主張さ
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