への問題へ私を誘い出すのである。

          二

 数年前のことであった。志賀直哉氏が何かの場合に、自分は思想としてのマルクス主義に反対はしないが、その中で働いている人間をいきなり尊敬することは出来ない、という意味を語ったのを間接にきいた。
 いかにも志賀氏らしい言葉であると、当時私は面白く思った。そういう一見はっきりした潔癖性、この人生における座の構えによって、その構えを可能にしている土台のある限り、志賀氏のリアリズムは「万暦赤絵」の境地に安坐するであろう。そう思ったのであった。
「強者連盟」の梅雄の生活感情を読み、「新しき塩」で魚住の云っていることを読むと私の記憶には志賀直哉氏の言葉まで甦って来る。そして、一つの声を加えるのである。
 石坂洋次郎氏の「麦死なず」を流れる感情も根柢に於ては、ここに血脈をひいている。「麦死なず」に対する批評に向って反駁的、勝者的気分で書かれている同氏の「悪作家より」(改造・十月号)でその気分は極めて率直と云えば率直、高飛車と云えば高飛車に云われているのである。
 石坂氏のように、さア、返事はどうだというような気持も、主観的には壮快なるものが
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