吠える
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黒斑《くろぶち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)折々|雫《しずく》のように

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九二六年七月〕
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 雨が降って寒い夕暮など、私はわざと傘を右に傾け、その方は見ないようにして通るのだ。どういう人達が主人なのだろう。そしてまた何故、あの小舎を、彼処に置いておくのだろう。私は、坂を下りかけると、遠くから気をつけて行く。白いものがちらりと見えたり、かちゃりと鎖の音がしでもすると、私は矢を禦《ふせ》ぐ楯のようにいそいで傘を右に低く傾ける。登って行く時なら反対の方へ――左へ傾ける。それで眼で見ることだけは免れるようなものだが、私は楽でない。彼処にあれが、ああやって生存する間私は完全に楽にはなり切れまい。――私は或る一匹の犬のことをいっているのだ。
 然し、それより前、家のことを話そう。その犬の飼われている家は、小石川の二つの丘陵地帯を繋ぐ、幅広い坂の中途にある。坂の中途に建った家がよくそうである通り、家全体の地盤が坂より低い。二三段石の踏段を降りて、門から玄関までの敷石を渡ることになっている。細長い、樫の木の生えた、狭く薄暗い門先だ。そこに、犬小舎が置いてある。軒下ではない。門柱の直ぐ傍だ。何だか粘土質らしい、敷石はずれの地びたの上に、古びた木造の犬小舎がある。
 私は、その門から男も女も、活々した姿を現したのを嘗て一瞥したことさえない。門扉が開き、まして近頃はアンテナさえ張ってあるのが見えるから、確に人はいるのだ。それにも拘らず、私が通る時出会うのは人ではない。犬だ。いつも、犬だ。白い頭の上から墨汁の瓶をぶっかけられたように、黒斑《くろぶち》のある白犬だ。
 斑犬を、私は一概に嫌いだというのではない。鷹揚で快活な斑もあるが、その犬のように、全体はっきりした白と黒とで穢《よご》れたようなのは、陰気だ。その上、まるで面長な色白い人間の婆さんのような表情を、この犬は持っているのだ。樫の木は、冬でも小暗い蔭を門になげている。家はがらんと人気《ひとげ》ない。そこに、鎖につながれ、この斑の婆さん風な犬が私を見ている。――おまけに、その犬は、世間普通な犬の吠え方を知らないのか忘れるかしている。吠える声を聞く
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