縫子
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)緩《ゆっ》くり
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一
二階の掃除をすませ、緩《ゆっ》くり前かけなどをとって六畳に出て見ると、お針子はもう大抵皆来ていた。口々に、ぞんざいに師匠の娘である縫子に挨拶した。縫子は襖をしめながらちょっと上体をかがめ総体に向って、
「お早う」
と答えた。彼女は自分の場所と定っている地袋の前に坐った。針箱や縫いかけを入れた風呂敷づつみなど、お針子の誰かによってちゃんと座布団の前に揃えられていた。然し、直ぐに包みはとかず、縫子は傍でかんかんおこっている火鉢を引よせ、その上にこごみかかって手を焙った。窓際で車屋の娘のてふが小紋の綿入れの引き合いを見ていた。拡げられている縫物の様々な色、染の匂い、場所に合わせては多すぎる娘達などで明るい狭い部屋は一種柔く混雑している。
縫子が箱火鉢の縁に手頸をのせ掃除でぬれた爪あかぎれの繃帯をほどいていると、米《よね》が箆《へら》台から頭だけ擡《もた》げ大きな声で、
「先生」
と隣室に声をかけた。
「はあい」
「きのうの男物、やっぱり鍵にしておきましょうか」
「それでいいでしょう」
縫子も他の娘達も気のない顔でその問答をきいた。米は暫く一心に紺花色の裏地を裁っていると思ったらいきなり、
「ねえ、ちょっとどう思って? 千代乃さんまた来るでしょうか」
と云い出した。くるりとその声でてふが振向き、
「縫子さんどう? 昨夜の様子ったら!」
さも堪らなそうに云った。縫子は、やはり火鉢にかぶさったまま、嘲るように口のはたを引下げて笑いながら合点する。
「何なの」
好奇心に満ちたのは米ばかりではなかった。
「千代乃さんがどうかしたの?」
てふが、まち針を打ちながらわざと無雑作に云った。
「昨日千代乃さんの御婚礼があったのよ」
「あらあ」
何故だか一同がとてもおかしそうに吹き出した。
「本当? 本当に昨夜あったの? いやな千代乃さん、私今度会ったらうんと云ってやるわ。こないだ会った時訊いたらすまして来年よ、だなんて――」
「見たの? おてふさん」
「見たわ、ねえ」
てふは、さも二人だけがあれを知ってるのよと合図するように得意で縫子に目交ぜをした。
「とても素敵だったわね」
縫子はまた、大きい瞼がちっと脹れぼったいような眼を瞠《みは》って、唇を引下げながら合点する。――この意味ありげな表情を見せられた娘達はもう我慢を失なった。
「ねちょっと! 何なのよ、何があったの?」
「いじわるな人! 焦らさずにおっしゃいよ、早く! さ」
「私だって昨夜千代乃さんの御婚礼だなんて知らなかったのよちっとも。あれ何時頃だった? 八時頃? 縫子さんと二人してお湯から帰りに糸源へ廻ったのよ、丁度ほらあすこ千代乃さんちの先でしょう? こっちへ来ると千代乃さんちの前がひどい人だかりなの。何事かと思って私ドキッとしちゃったわ全く。いそいで縫子さんと行って見たら、それが、あんた千代乃さんの御婚礼なのよ」
「だって――表からどうしてそんなに見えたの?」
「わざと見えるように、お店をすっかり開けっぴろげてあるのよ。――千代乃さんのお母さんて、ほら――云っちゃ悪いけれど随分あれでしょう? だから見て貰いたくって仕様がないのよ――ああいう処を……」
米が同情と羨望をこめて呟いた。
「千代乃さんこそいい面の皮ね」
――皆が暫時《しばらく》沈黙した。やがて内気で年若なのぶが、
「千代乃さん綺麗だって?」
と訊いた。
「綺麗だったわ」
「島田?」
「そうよ」
「どんな装《なり》? 模様?」
「そうだったわね、何あの模様――蓬莱じゃなかった?」
縫子は指先に繃帯をしながら、
「……見えなかったわ」
とぶっきら棒に返事した。本当は蓬莱だったのを知っていたが、彼女はてふが得意で喋るのがだんだんいやになり出したのであった。然してふは、
「お婿さんよかずっと立派だったわよ。お婿さん、ありゃあきっと千代乃さんより小っちゃいに決ってるわ」
とがらがら云って、皆を笑わせた。
「――でも千代乃さんもこれからは今迄のように行かないわねえ、うちの姉さん見たってわかるわ」
米がしんみり云い出したにつれて、二十前後の娘たちはてんでに嫁に行くのがいいか、養子がいいかという議論を始めた。次第に熱中し、実例を出したり、噂の又噂をしたりして盛に自分の言葉を朋輩に信じさせようとする、興に乗った様子を縫子は火鉢のところからぼんやり眺めていた。縫子はよく何も手につかずぼんやりしていることの多い娘であった。左の人指し指と薬指とに白金巾のきれっ端でちょいちょいと繃帯し、小さい蝶でもついているような手を大火鉢にかざし、その甲に頬ぺたをのせて皆の方を眺めている。火気の故で、彼女の薄皮で色白な顔が上気《のぼ》せうるんだようになった。それでもそうやっている。何か可哀そうっぽいところがあるので、ふと見咎めた米が、
「縫子さん、どうかして?」
と云った。
「おや、悲観してるの? 何か」
さも揶揄《からか》うように仰山なてふを睨んで縫子は徐ろに首を擡げた。彼女は、腰を反らせるとくしゃくしゃ両手で眼を擦《こす》りながらとってつけもなく、
「あああ、眠くなっちゃった」
と大きな生欠伸《なまあくび》をした。それを見ると皆はひときわ高く笑いこけた。縫子がごまかそうとしたのが明かだと思うから、なおさら笑いがこみ上げて来る。縫子はあまり笑われるので自分までほんのり赧くなってしまった。
「おやめなさいってば――」
彼女は面倒くさそうにとんび足に坐ったまま風呂敷包の方へ小柄な紡績絣を着た体をずらし、やっと仕事に取懸った。
二
縫子は、いつからとなくヒステリー娘だと思われていた。機嫌のいい時面と向って「縫子さん、またヒステリー起しちゃいけませんよ」などと出入りの細君が云っても、彼女はちっとも怒らなかった。万事心得た年のいった娘らしく笑って「へえ、へえ」などと冗談に紛らして答えた。自分でもヒステリーをそれなら承認しているのだろうか? 縫子は、山科さんの娘のようなのこそ本当のヒステリーだと思っていたから、自分については拘泥しなかった。山科さんというのは秋田の大金持で、東京に別宅があり、そこの借家に、縫子の親、杉村勘次郎一家が住んでいた。家賃三十四円の借家人と家主以上の関係が、母親なみが頼まれる縫物をなかだちとして生じた。山科さんの娘の名は桃代と云った。五つ六つの太ったいい着物を着た子であった時分、桃代という名はどんなにか可愛らしい少女にふさわしいものであった。今でも着物は道楽で、それ故なみが時々徹夜さえさせられるのだが、あまり愛らしい女ではなくなって来た。桃代は二十五で、桃ちゃんと呼ばれ、家にいた。女中や下男などに気に喰わないことがあると寒中でも水をぶっかけた。秋田ではそれでも働く人に事は欠かなかったろうが、東京では山科の家の門だけ明いている訳ではない、と皆逃げ去る。困ると、縫子を迎えに来た。下の働きをさせるより、桃代の相手役に頼まれるのであった。年の大して違わない――縫子は二十三であったから――話対手の他人が入ると、桃代は水をかぶせるほどの癇癪は一遍も何故か起さなかった。おそろしく――一緒に並んで歩くのが極りわるいほど盛装して妻三郎の活動を見に行く位のものであった。
そういうのこそヒステリーらしいヒステリーだ。縫子は決してそんな話の種を作るようなことはなかった。彼女はただどうかした拍子で時々云うに云われず一切合財生活の事々が詰らなあくなってくるだけであった。生きているのが厭というのでもない。何がどう詰らないというのでもない。ああその張合いないどうでもよさといったら……。縫子は眼を開けているのさえいやで面倒になるのであった。母親が師匠だけあって自然手に入った裁縫でさえ、そのような時縫子の気つけ薬には役立たなかった。ましてあたり前な水仕事や洗濯など。――彼女は床にもぐったきりになった。そこから黙って出て来て御飯を食べて、再び布団をかぶりに戻る。
家は下が二間しかなかった。箪笥や長火鉢の置いてある四畳半に縫子が寝ていると、お針子が手水に行くにどうしてもそこを通らなければならない。母親や妹の登美とともにお針子達も、縫子の病気は理解していると見え、誰一人真面目に心配はしなかった。平常親しい米やてふも、いたって軽く、
「縫子さんいかが」
と通りすがりに声をかけて行くだけであった。枕元に蹲んで話しかける者もない。変に放任されて、縫子は寝ている。彼女は侮蔑というほどでもない家じゅうの侮蔑にそうやって遠巻きにされつつ醒めているのか、うとうとしているのか。力が萎えて体がしゃんと立たない。大儀に寝がえりを打つ時など涙が眼尻から冷たく流れ落ちた。
朝、六時半に登美が目を醒した。彼女は、
「姉さん」
と、隣りに並んで眠っている縫子を起した。
「もう時間だわよ」
縫子はひどく充血した眼を開いて陰気に寝たまま、着換えしている妹を眺めていた。
「火起してるから早く起きて頂戴」
登美は私立女学校の三年生であった。彼女が火を起し、お釜までかけたのに姉はまだ起きてこない。その部屋に学用品をのせた机もあるし、登美は、
「どうしたのよう姉さん」
とふくれ声を出して催促しながら障子をあけた。また枕についたまま縫子は憤ってでもいるように妹を凝っと見、やがてあっち向になるなり夜具を引きかぶってしまった。
「――――」
ちょっと呆気にとられた登美は、合点が行くと、
「仕様がないわね」
と大人らしく呟いた。
「姉さん、起きないの? 起きないんなら母さんに起きて貰わなくちゃ駄目じゃないの」
姉がうんともすんとも云わないのを見て、登美は隣室へ襖越しに叫んだ。
「母さん、起きて頂戴な。姉さん起きないんですって今朝は――」
「おやおやそれは大変だ。――もう御飯かけましたか」
というなみのいつも穏やかな、歯の工合でも悪そうに引かかる国訛の残っている声がした。
「――また例のでしょう」
こちらへ出て来ながら、縫子の床を見下し彼女は愕《おどろ》きもせず云った。
「――どうも二三日怪しいと思っていましたよ――顔の上気せかたが変だったもの。――さあ登美ちゃん、髪をお結いなさい、もういいから……」
縫子が寝ついたということは、よその家庭で電球が一つこわれたという位の感情しか家じゅうに惹起さないらしかった。商工省の小役人である父親の勘次郎は、朝食後の爪楊子を口中でころがしながら、
「どうした」
と一言云ったぎり、縫子の夜具の裾の方で洋服に着換え、いつもの通り出勤して行った。
三
お針子がいるしするので、杉村では御総菜などに手間をかけない風であった。昼になみは、米《よね》のところから貰った鰯の干物を焼いた。そして自分だけ先に食べ終った。あとから、縫子が赤い細紐姿で餉台のところへ出て来た。番茶が注ぎ置きになって瀬戸引の薬罐にあった。彼女は飯の上からそれをかけ、干物をむしりながらお茶漬を食べはじめた。目の前は三尺の縁側、直ぐ隣家の生垣で疎らな檜葉の間から庭の一部が見えた。奇麗に箒目のついたところに赤い柿の葉が散っている。日のにおいがしそうな光線が清げな土地にさしていた。脹れぼったい重い瞼でその日の澄んだいろを見ながら、くちゃくちゃふてた食べようをしているうちに、縫子は涙をこぼしだした。胸にしみ入るような淋しさがあった。日の光があまり透明で晩秋らしいからだろうか。――一人でいると、心がどうかなってしまったような縫子にも、こういう風に自然から迫って来るものを感じることが出来た。彼女は何故涙がこぼれるか人に話して聞かされないと同じに、何故自分がこんなひどい無気力に圧倒されるか自分にすら説明出来ない。日のいろを眺め涙を勝手に頬へ流していると、縫子は少し楽な気分になった。
また床に入ってから眠ったものと見える。しかも随分眠ったらしい。縫子は人声で目を醒した。西日が裾の方の障子に当っていた。お針子はもう帰ったと見え、六畳で
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