なみと今泉という懇意な細君の低い話声がするのだ。
「ええ、そうですとも……」
これは今泉の細君の元気な嗄れ声だ。
「どうしてでしょうね。同じもの食べて私や登美子なんぞちっとも何ともないのにねえ」
「――皸《あかぎれ》なんかも体質によると見えますねえ」
暫く間を置いて今泉の細君が云った。
「やっぱり人はきっちり勤めでもあった方がいいと見えますね、お出しなさるといいんですよ縫子さんも」
「実科を出たばかりのとき暫く勤めていたことがあるんですが、どうも何をしても続かないんでね、朝起きるのが辛い人だから冬なんぞとてもね」
「人間は張合いで生きているようなもんですもの、お琴でもお花でもお稽古ごとだって習えば習っただけのことがあるんだからなさりゃいいんですよ」
「――何か好きなことがありでもするといいんですがねえ」
と述懐するような母の声がした。母は縫子を前に置いて云うことしか云っていない。縫子は床の中から他人事《ひとごと》のように聞いた。
すると、突然今泉の細君が大きな声で、
「なあに、今にちゃんとした方でも見付かって身がきまれば大丈夫なおりますよ」
と云った。その声は寝ている縫子の耳にひどく大きく響いた。
「そうだろうと思っていますけどね、何しろ」
あと急にひそひそ話になった。縫子は心持を悪くした。彼女は覚えず欹《そばだ》てていた耳まで夜具をかぶり、再び物懶《ものう》く目を瞑った。六畳でのひそひそ話しはざっと、
「何しろ、縫子には義理がありますから、そこがね、どうも難しいんですよ。うっかりお嫁にやれば私に考えがあるようにとって喧しい人が出て来ますし、養子して跡立てさせるとしたところが、養子は養子でまた難しいものですしねえ。財産でもあってのことなら何ですけれど……」
という意味であった。なみは気の平らな二度目の母親としては珍しい女であった。彼女はただあまり平らかな気持すぎて縫子のことを話すのでさえどこやら永年世話したお針子の一人のことでも話すと同じようなところがあった。
翌日、縫子は思いがけないきっかけで床を離れることになった。
四時頃登美が学校から帰って来た。
「あら、姉さんまだ寝てるの」
制服姿で、母親のなみに似て色こそ黒いが釣合のよい体つきで荷物を机に置いた。
「お起きなさいよもう。――どこも悪いんじゃないんじゃないの、私狭くって困るわ」
縫子は力のない声で抗った。
「頭が重いのに――放っといて」
云われるまでもなく姉にはそれ以上かまわず、登美は茶箪笥の前へ蹲んだ。
「なあにかないか――おや――素敵!」
彼女は小丼に一杯きんとん煮にした甘藷を発見したのであった。
「お昼に煮たの? 姉さん沢山食べたんでしょ」
冷かしながら、登美は早速箸を持ってきた。
「ああおいしい」
如何にも好物を嬉しそうに抱え込んでいると、ガラリと格子が開いた。おやと登美が箸を止め、出て行こうとする間もなく続いて境の唐紙が一気に開かれた。
「やあ今日は、何だ、縫ちゃんどっか悪いの」
和服で立ったのは従兄の英輔であった。
「いやな英兄さん、びっくりしたわ」
登美は改めて、
「こんにちは」
と少女らしい挨拶をした。
「どうしたの、悪いの」
縫子は、鼻のところまで夜具の衿を引上げ、赧くなり、極りわるげに眼で笑った。
「頭が重いんだって」
登美が代って答えた。
「へえ、風邪? この頃流行ってると見えるね、クラスでも閉口してる奴があった」
そしてまた、寝ている縫子を顧みた。
「大したことないんだろ?」
縫子は合点した。
「姉さんの、気病よ」
「仮病でなくて幸だ、ハハハハハハ」
登美がお茶を出したり、それを英輔が飲んだりするのを傍で眺めると、縫子には自分の寝ているのが詰らなく感じられてきた。体がいつか軽くなった。それを無理に夜具で寝かしつけているような心持さえする。
「母さんは?」
「ちょっと買物」
「何、それ」
英輔が登美の抱えていた小丼を見つけたらしい。
「何でもないわ」
「どれ――僕にもくれ給えよ」
「いや」
「変だね、何なのさ。ウワー、登美っぺ、こんなものが好きなの、驚いたね」
「平気よ」
登美は落付いてまたきんとん煮を食べだしたらしい。羽織を着、餉台に肱をついている英輔の後つき、その横で喋ったり食べたりしている登美のふっくりした顔などまことに楽しく睦じそうに見える。縫子は羨しい、起きたい心を抑えきれなくなって来た。彼女は、欠伸とも吐息ともつかない声を出し、布団のうちで重々しい寝がえりを打った。登美が、
「なあによその声」
と笑いだした。
「起きたらいいじゃないの姉さんたら……」
「起き給え、起き給え! うんと遊べばそんな病気なんぞ癒っちまうよ」
四
英輔の親友が小さい或る銀行の重役のようなことをしていたし、英輔自身慶大の法科に通学していたりするので、杉村の家族は彼が来るといつもどこか家が明るくなったように感じた。娘たちばかりでなく、なみでさえ外から帰って来ると、
「おや珍しい」
と気さくな悦びを示した。
「悠くり出来るんでしょう? 今日は。――伯母さんはいかが相変らずですか」
彼女は布団の上に立って帯をしめかけている縫子を見て、毒のない冗談をあびせた。
「さあさあ御病人さんも寝ちゃいられますまい」
まだ大儀なのだがまあ折角のお客だからという風に体を扱っていた縫子も、夕飯が賑やかにすみ、好きな花合せが始ると、しんから溢れる活気をかくす業など忘れてしまった。坐布団を真中にして、長火鉢の両側に父親の勘次郎となみ。登美がその次で縫子は英輔と隣り合わせであった。
「おりるおりる、こんな変てこな札つかまされて出られるもんか」
すると、縫子が、
「じゃ見て貰おうっと。ね、どうこの手――大丈夫?――仕様がないでしょう」
両手に札を扇形にひらいて持ったまま膝をくずして英輔の方へさし出した。
「そうねえ――このかげがありゃ素敵だが――」
英輔は勢よく、
「行き給え行き給え、僕がついてる」
と、持ち添えて見ていた手を離した。
「じゃ参ります」
「丁寧だね」
「いいこと? じゃ私役があるわよ」
登美が本気になって声を張上げた。
「十一《といち》!」
縫子は、手の中を絶えず英輔に見せるようにしつつ、百人一首でもするような手つきで歌留多をめくった。
「姉さんと父さんとそっくりね、いやに不景気なやり方をするんだもの」
色の黒い、しかし太って皮膚の軟い勘次郎は太い眉をひくひく動しながら、
「勝てばやり方なんかどうでもいい」
と、舌たるいように云った。
「変だね僕こんな筈はないんだがな、見てくれよこれを」
英輔は碁石入の蓋にたまった借貫の南京豆をからからころがした。やッと、英輔が親になった。
「ようしこれで皆の財産総浚いにしてやるぞ。不見《みず》!」
「あらあ」
娘たちが一時に恐惶した。
「小場《こうば》が出ろ! 小場《こば》が出ろ!」
「なあに――シッ! とどうだ。偉いだろう」
「何? あら坊さん? あら! あら! ずるいわ英兄さんずるいわ、そんな一度に二十もの三枚も出すなんて……」
「仕様がないよ、天が我に幸したのさ――あ、誰でもいらっしゃい、出る人は九貫、下りる人は三貫から……」
なみが本当に少しあわてたように、
「困りましたねこれはどうも。出たいようだが九貫は辛いわね」
と、古風な束髪をピンで掻いた。
「じゃ特別八貫にまけます」
縫子は勝負の間じゅう口らしい口は利かなかった。登美が直き嬉しがったり悲観したりするのを姉らしく笑いながら、時々英輔に助けて貰い、また彼の札を覗き込み、遊んだ。彼女は上気せ幸福そうにあたたまっている。背中を少しかがめ体じゅうどこにも力らしい力がなくて若い婆さんのような様子が現れた。縫子は仕合わせを感じていると、多くの若い娘のように活溌に敏捷にならず、腕に力のないような、よたよた歩みをしそうなところが出来るのであった。
十時頃。
「さあ、これでお仕舞」
と英輔が先に札を投げ出した。
「ああああ、すっかり熱中しちゃった」
勘次郎は煙草をつけ仔細らしく云った。
「やっぱりトランプなんかより面白いね日本人には」
なみが、
「さあお口がせっついているでしょう皆さん」
と云いながら台処へ立った。
英輔は側にあった婦人画報を見始めた。登美が一緒に覗いた。
「英兄さんどんな人がすき?」
「さあね、どれもすき」
「本当は? あ、この人はどう」
口で冗談云いながら、英輔が眼では割合一心に見るのが縫子に感じられた。彼女は無関心そうに南京豆を鑵に戻し始めた。
「英兄さん、どんな奥さんがよくて。――ハイカラな人?」
「ハハハハ単刀直入だね登美っぺは。――田舎っぺえは御免だよ」
「英語が話せたり、ピアノが弾けなくちゃいけないのね、そんなら……」
「ピアノなんかどうだっていいさ」
ぱらぱらと夥しい令嬢の写真版つきの雑誌を翻したが、英輔はふと真面目に傍に縫子のいることなど念頭にない自然さで考え深く呟いた。
「これからは女もせめて専門学校位出ていないじゃ駄目だな」
南京豆は鑵の中へ落ちるたんびに喧しい音を立てていたが、縫子はこれを聞洩すようなことはなかった。南京豆が千落ちる音よりこの呟きは大きい。――
「――姉さんたら。母さんが呼んでるじゃないの。……駄目よまたぼんやりしちゃっちゃ」
縫子は初めて気がつき、のろのろ台処へ立って行った。
縫子は明る日から再び六畳に現れ、お針子の仲間に加った。再び地袋の前に坐っている彼女を見て、もういいのと訊く者さえなかった。
「縫子さんお早う」
「お早う……」
昼休みに米が大菩薩峠を音読して皆に聞かせた。「『まず御免なせえまし』そこへ入り込んで、どっかと胡坐《あぐら》をかいて黒い頭巾を投げ出したのは、なるほど裏宿の七兵衛でありました」
「ちょっと、そこに縫ちゃんいますか」
爪を剪りながら大した感興もなく、油ののった米の声を聴いていた縫子は、小鋏を置いて襖をあけた。茶の間に行って見ると、水口から茶色のスウェタアに洋袴《ズボン》をつけた勇が帰って行ったところであった。縫子は黙って長火鉢の向う側に来て蹲んだ。
「困っちまうわね、山科さんところ、また一騒動したんですってさ」
縫子は、灰をいじくりながら唇を歪めた。
「二三日頼みたいって云うんだけれど――どう? どうせお裁縫も間だしするから行ってあげなさいな」
縫子はつい先日、今泉の細君の義理のある家で手不足だというので頼まれ、十日もいやな思いをして手伝って来たばかりであった。
「また別なところじゃありませんか。――それにその皸で家にいたってお洗濯一つ出来ないんだもの。――」
「…………」
暫く黙って長火鉢に拭布をかけながら、やがてなみがいいことを思いついたというように云った。
「ああ本当に! 今度は山科さんに何と云われても永く借しちゃ置けない。――二十日に御法事があったもの。是非その日は帰ってもらわなくちゃならないから今日が――何日? もう十六日でしょう、ほんの僅だ、行って上げなさい」
行くとも行かぬとも返事をせず、秋日和を自分の体で堰いていくらか暗い鉄瓶のところをみつめているうちに、縫子は妙に情けない気持になってきた。当のない暮しという思いが身に徹えて感じられた。今度はここへ行く。またあそこへ行く。そうやっている自分に何ともいえず哀れっぽいものが感じられる。縫子は涙ぐんだ。するとなみが、お針子を憚って低い声で、
「なんですね」
とたしなめた。
「そんな意久地のないことでどうなります。何も涙なんぞ出すことないじゃないの」
強く云われると縫子は音も立てず一層涙をするする頬につたわらせた。なみは当惑そうにそれを見ていたが、
「どうしてそうでしょうね」
と歎息した。そして縫子の生れたままの弱い不活溌な心に霧のようにいつもかかっている一種の生存の苦しさなどにはまるで心づかず、
「晩にでも大村さんへ行って診てもらって来なさい、よほどどうかしているもの」
と勧めた。
底本:「宮本百合子全集 第二
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