夜の若葉
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)遑《あわ》てた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6、421−1]
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一
桃子の座席から二列ばかり先が、ちょうどその二階座席へ通じる入り口の階段になっていた。もう開演時間の迫っている今は、後から後から込んでいかにも音楽会らしい色彩の溢れたおとなしい活気の漲った混雑がそのあたりに渦巻いている。プログラムと書類入れの鞄とを膝の上に重ね、そこへ両腕をたがい違いにのせた寛いだ姿態で、桃子は目の下の賑やかな光景を、それもこれから聴こうとする音楽の添えものとしてたのしむ眼付で眺めていた。桃子のところからは正面に、入り口を囲んでめぐらされている手摺が見えた。下の大廊下から絶え間なく流れ込む人々は、一段一段のぼって来て、先ず頭から先にその手摺のところに現れ、ついで肩、帯、やがてすっかりの姿となって、時には互によけ合って却ってぶつかったりもしながら通路を夫々の座席に動いてゆく。いろんなきもの。いろんな帯。いろんな髪の形。夫々の趣向をひそめたそれらの色と動きとを巻きこんで、熱心に調子を合わせているバスの絃の響、笛の顫音、ヴァイオリンの入り乱れた音などが期待を誘う雰囲気をかもして、しめられている舞台のカーテンの彼方から場内いっぱい漂っている。
空いていた桃子の右隣りに譜をプログラムに持ち添えた青年が来た。桃子はスカートをまとめてすこし体を肱かけからずらし、自然な動作のつづきで柔かく顎をひきながら襟に插している渋い色の匂い菫をかいだ。勤めからまっすぐまわって来る桃子は、小さいけれども生きたその花を襟にさして、一つの夜を自分なりの心持よさに飾っているのであった。
ふと、目の下の木手摺のところへ現れた一人の男の姿が桃子の視線をとらえた。横を向いた顔でそれがたしかに順助だと判ると、やっぱり来たのねという気持を率直な表情にあらわして、桃子は順助がこっちを振向くのを待った。学校時代からこの交響楽団の演奏会だけは来ている従妹の席を、やはり音楽好きの順助はよく知っているのであった。今も順助は、持ち前の何となし寛闊なところのある身ごなしで帽子を脱ぐと、頭をめぐらして、高いところから自分を見守っている桃子の顔をなんなく見つけ、爽かな笑顔でもって頷いた。親愛のこころそのままの様子でそれに応えている桃子から順助へと、隣席の青年が青春の敏感さで目をうつした。順助のとりつくろわない全体に何かただようものがあって、それは男の目をひくものをもっているのであった。
みてみると、順助は通路に佇んでいる桃子とおない年ぐらいの女のひとのそばへよって行って、少しこごみかかる姿勢で何かいった。そのひとは素直にふりかえって、順助に教えられながらだんだん辿って桃子の顔へ視線をとめると、おとなしい会釈をその場所から送ってよこした。少し遑《あわ》てた桃子は丁寧に女学生っぽいお辞儀をかえした。支那風の翡翠色の繻子に可愛い刺繍をした帯のうしろを見せてそのひとが先に立ち、いつもの順助の席よりはずっと先の棧敷の方へ静かにおりてゆく。そこへ開演をしらせるベルが鳴りわたった。
井上園子の演奏するコンチェルトを桃子は今夜特別深く心にうけとって聴き入った。久しぶりでこのひとの演奏をきくというばかりでなく、ステージへ出て来てお辞儀をする、そのお辞儀のしぶりからして今晩の井上園子にはよけいなもののない本気さがこもっていた。真直《まっすぐ》音楽にうち向いて、音楽に自分の生活のあらゆるものを与えそこに生きようとまた新しく思いきわめたというような気魄が、力づよく丸みある一うちのコードのなかにも響いているようである。新鮮なおどろきに似たこの感動は曲が進むにつれてますます桃子の心を捉えた。ぐるりの聴衆も、際立ったこのピアニストの内面的な進境で奏される音楽に魅せられた風で、息をつめた満堂の静謐のなかに最後の旋律が消えると、情緒的な拍手の嵐がおこった。アンコールのあとも拍手はしずまらなくて、もう一度出て来たそのお辞儀もやっぱり、さっぱりと真率なものでされている。桃子は熱心に手をたたきながら、もし出来ることなら、この芸術家の手を心から女同士の思いでとって、本当によかったわねえ、とよろこびと激励のひとことを囁きたかった。桃子はこのひとが外国から帰って来たばかりのまだ白いソアレを着ている細そりとした令嬢だった時分から、ひそかな支持者の一人であった。やがて関西の富裕な実業家との華々しい婚礼があり、それから後の数度の演奏は、女性として肉体的にも豊饒な刻々の成熟が反映しているようでありながら、どことなし余分の自身の雰囲気に自分から身を置いているような不安があった。今晩の演奏ぶりがこんなにも生粋でしかも芸術への気魄にみちているのは、どういう変化がこの富と天賦とをゆたかにそなえた女性の内心に生じたからだというのだろう。幸福に飽満したからとはいい切れないもの、もっと女の心の奥に複雑に目醒まされたもの、それが今や彼女の音楽を一層の含蓄と熱意とに満ちたものとしているように思われる。そして、それは仕合わせな暮しと一応みられている生活のなかにも在る微妙な人間生活の陰翳から来るものだと思われるのは、自分だけの間違った推察だろうか。
女の芸術の進んでゆく姿に、こんなにうたれる今晩の自分の心の感じやすさの理由に我から心付くところもなくはなくて、桃子はぼんやり上気した頬へプログラムで風をおくっていた。いつの間にか来た順助に、
「ひとり?」
ときかれて、桃子は思わず、
「あら」
と、顔を赧らめた。
「よかったら、ちょっと出ようか?」
歩きながら順助は、
「森崎知ってただろう?」
といった。
「あの妹さんだ」
休憩の人々で溢れている露台の太い柱のところで、順助は改めて二人を紹介しあった。
「従妹の川田桃子です。森崎さよ子さん、どうぞよろしく」
そして、煙草に火をつけながら、
「園子夫人の進境著しい、ね」
ひとりでの感情を声に溢らして桃子は、
「ほんとう!」
と相槌をうったが、すぐさよ子をかえりみて、
「ここ、いつでもいらっしゃいますの?」
と話題のなかへ対手を誘った。
「時々――兄ったら自分の来たくないときだけ切符くれますのよ」
「じゃあ今日は特別待遇ですね、二枚もおごってくれたんだから」
「友兄さん、今うれしいからなんでしょう」
順助は、
「ああ、そうか」
と笑って、
「友二さん、学位とれることになったんだそうだ」
と桃子に説明した。
順助は、音楽会へ女の子をつれて来るのが好きというたちの青年とは全く反対の性格である。その気質をよく知っている桃子が、今夜は思いがけず一緒に現れた初対面のさよ子に対して、いわば順助への心づかいから、自分をなるたけ内輪に内輪にと表現しようとしているのが、順助にはっきり感じられた。
演奏会が終ってから銀座へでも出ようと、暗いビルディングの間を歩いたりするときも、桃子は和服で草履ばきのさよ子の足なみに自分の歩調を合わせている。さよ子は一向それに気づかないでいる。さよ子のその自然さも、順助にはわかる。
三人は、階下で花なども売っている有名な果物店の上で冷たい飲みものをとり、そこからぶらぶら有楽町の駅まで行った。出札口のところに切符を買うひとの列が出来ていて、順助はその一番しまいに跟《つ》いたが、何気なく帽子をかぶり直す横顔に微かな当惑の色の浮かんでいるのが桃子の目に入った。ああ、きっとかえる方向が別々なのだ。桃子がひとりになるのを順助は気にしているのだ。
「お宅――どちらですの?」
「ずうっと大森」
桃子は、
「順助さん――私の分まで買う気なんじゃないのかしら」
ひとり言のように呟いた。
「ちょっと失礼、ね。いってくるから。――私パスなんですもの」
書類入鞄からパスを出して、桃子は順助に向って歩きながら、これ、これ、という風に動かしてみせた。そばへ行くと少し声を落していった。
「――私大丈夫だから――ほんとに心配しなくていいのよ」
「ああ」
列にならんで雑踏するプラットフォームへ出ると、順助は半分冗談めいて、
「どっちが先へ来るだろうかな」
と、左右の線路を見くらべるようにした。やがて、それにはちっともふざけたところのない暖かさのある声で、順助は、
「桃ちゃんが乗ってしまうまで待っててやるよ」
というのであった。
二
中学の二年のとき父を亡くしてから、順助は半分は伯父である川田の家で桃子たち兄姉のなかにまじって成長したともいえる工合であった。三つ年上の広太郎がいつも順助の兄役であった。そのこともあったろう。でも、折々桃子が不思議に思うくらい、桃子の思い出のなかには順助と遊んだいろいろの情景が濃くのこされて来ている。
たとえば夏のかっと灼《て》りつけた庭土の上を蟻が盛に歩いているのを眺めたりしたとき、桃子の若い回想のなかに甦って来るのは、いつもうちの離れの前栽の景色にきまっていた。
茶室づくりの離れの前栽には、松や蕚などがひっそり植えこまれていて、暑い昼間、蜥蜴《とかげ》が走った。小さい桃子のおでこにざらざらした麦藁帽子の縁がさわっている。それは順助がかぶっているのであった。桃子は四角な踏瓦をひっくりかえした下から現れ出た柔かい土とそこにある蟻の卵とを、びっくりして眺めていた。
「ほら、おどろいているんだよ。駈けてるだろ、卵をよそへ運ぼうとしているんだよ」
しかし順助はそれ以上蟻の巣をかきまわしたりはしない。またその四角い踏瓦を元のとおりにかぶせた。そして、口笛か何か吹いて歩き出した。
二人も兄たちがいて、桃子にそんなにして蟻の巣を見せてくれたのはどうして順助だけだったのだろう。
やっぱりそれもいつかの夏、簾の下った部屋部屋の電燈を消して、かくれんぼをしたことがあった。桃子は父の大きいテーブルの下に這いこんで息をころしていたが余りいつまでたっても鬼が来ないのでだんだん待ちきれなくなって来た。片手でタンマをこしらえながらその机の下を這い出して、ひょいと立ち上ろうとした途端、廊下の簾の蔭から鬼になっている順助が何と思ったのか犢《こうし》ぐらいの嵩で自分も四つ足になりながらいきなり姿を現した。余り度胆をぬかれたのと怖かったのとで桃子は本当に泣き出してしまった。
「順ちゃんたら、そんな黄色いものを着てるのに這うんだもの」
そういって泣いた。順助は古風な黄麻の湯上りを着ていたのであった。
「弱虫だなあ」
順助はそういいながら泣いている桃子の傍に待っていた。そして、桃子が泣きやむと、
「もういいかい?」
と訊いた。
そのもういいかい? と小さい自分に訊いた順助の声の調子は、何とまざまざと二十三の娘となった今の桃子の耳の底というよりは心の奥に、抑揚のこもった響となってのこっていることだろう。あのときの順助や自分を思い出すと、何ともいえず懐しくまた滑稽で思わず笑えるのだけれども、笑いのなかには喉にこみ上げるような思いもこもっている。
兄二人が学校を終って就職し、順助が帝大の物理へ通うようになってから、元のような暮しは変ったが、順助のギタアにピアノを合わせるのは桃子であった。
「桃ちゃん、これ読むといい」
そういってイリーンというひとの書いた書物の歴史とか時計の歴史とかいう本を貸すのも順助であったし、英文科にいる桃子の学校でつかう本をみて、
「やっぱり先生ってものは自分が習ったような本をよますもんだな。特別な学者でなければ、語学の力で昔へばかりさかのぼらないだっていいんだろう。言葉なんて生きてるもんだもの」
と、外国雑誌をくれたりした。
母親の多代子が、おだやかな信頼の眼差しで、そんなことを喋ったり時には頻りと論判する二人を眺めているような空気が一貫しているのであったが、年々に色どりも多くなって来た桃子のひそかな独居の感情の裡
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