では、ふっと駭《おどろ》きのような歓びのような迸りを感じることがある。桃子はいつとなしに、順助が、兄たちともほかの男の誰彼ともまるでちがった一種の心持を自分におこさせることを心付くようになった。
その感じはちょうど交響楽が非常によく調子を合わせて奏せられてゆくのを聴いているとき、心はだんだんうちひらいて、音と溶け合い、高く低く、音から音へと広々と展開しまたひきしまってゆく、その快さに似ていた。順助には眼にも、声にも、ちょっとした物ごしの中にも、桃子の感覚に心持よくひっかかって来るものがあって、それは順助といるときの桃子に何ともいえず安心な、活溌な、同時に快活な生きるよろこびのようなものを吹き込んだ。順助といるとき、桃子は一番単純になった自分を感じ、つるつるしたむき出しの膝っ小僧を二つならべて、それでよろこんで坐ってどんな話でも出来る真摯な気分になるのであった。
去年、桃子が学校を出て、今つとめている貿易会社へ入った夏、防空演習があった。
「私は御免蒙りますよ、どうもこれじゃあね」
蚊帳を吊って多代子が横になってしまったあと、来合わせていた順助に、
「上へ行きましょうか」
桃子が先へ立って二階へあがった。南の空には、暗い屋根屋根越しに青く太くサーチライトの光芒が二条動いて、飛行機の爆音が高く遠いところにきこえている。灯をけしている座敷には、ぼんやりした夏の夜空の明るみがあった。
「このまんまでいい?」
「いいよ」
順助は座蒲団を背中の下に敷いて、ごろりと横になった。桃子は手摺のところへ腰をかけて風にふかれていたが、やがて、
「ああ思い出した、いいものがあるのよ、きょうは」
下へおりて、番茶道具と越後のある町の名物の絹餠をもって来た。
「きょう送って来たばっかりよ。但しみんなたべちまいっこなし」
「亮さん相変らずなのかしら」
下の兄が、そこへ赴任しているのであった。
「そうでしょう、みな元気らしいわ、でもあの辺は紫外線が足りないから子供はこの頃ハダカ主義なんですって」
桃子はまた手摺のところにかけ、順助はすこし離れたところに横になっているのであったが、ふっとその体が動いた気配で桃子がそちらへ向くと、薄闇の中にワイシャツが白く浮いて順助は胡坐《あぐら》になっている。そして、二つ折にした座蒲団を胡坐の上へかかえこむような形で、
「ね、桃ちゃん」
といった。いつもの気持のいい順助の声である。けれども、その声にはごく微かに何だかふだんでない響があるようで、桃子は返事が喉につまった。
それにかまわず、順助は、
「ね、僕が君に結婚を申し込んだとしたら大変にそれは唐突かい?」
ああ、ああ、このいいよう! 熱い光った波が体を貫いて桃子はそのまま攫われてゆきそうな気がした。考えたのはやっぱり自分ひとりではなかったのだ。
「――まるで考えないことだったかい?」
「そうじゃないわ」
それどころか、桃子はくりかえしくりかえし何度考えたであろう。特に勤めるようになっていろんな男のひとたちのタイプを見るにつけ、桃子には順助が決してどこにでもいる青年でないことがますますはっきりして来たのであった。
「どう思う?――不可能だろうか」
桃子はいつの間にか手摺をすべりおりて、窓に背をつけて坐った。
「可能性があると思う?」
「ね、順助さん……」
涙がつきあげて来て、桃子はやっと圧しつぶした声で、
「どうして従兄なんかに生れて来たのよ!」
両方の頬ッぺたを流れる涙を、桃子は荒っぽく手の甲で拭いては、それを子供らしくスカートにこすりつけた。
「父さんたち、ほんとに頓馬だわ、兄弟だなんて」
桃子は涙と一緒にそういって苦しそうに笑った。
「それ僕も同感だ」
「――そのこと、どう考えた?」
「だって、桃子、こうやって話す以上僕としては考えてみてのわけだろう!」
順助の調子は何と説得的だろう。桃子の心と体とはそういう順助の声の優しい重さに撓《しな》うばかりである。けれども、そのように瑞々しく撓えば撓うほど、桃子の肉体の内に一つの叫びが高まるのをどう説明したらいいだろう。
桃子は暗いあたりを力とたのむように思いつめた勢で、
「それでずっとやって行ける?」
といった。
「私こんなたちでしょう。私子供うみたいと思いそうなの――わかる? 私のいう意味がわかる? 私たちの心持。それだけのねうちもっていると信ずるの。だから、父さんたち、頓馬だっていうのよ。……でも、こんな気持男のひとにわかるのかしら――」
それは順助自身の感情としてもはっきり理解されることであった。二人のたっぷりした人間らしさ。たっぷりした互の気に入り工合、それは自然な生命の横溢を希っている。偶然な血族の関係から不具の子供をもったりすることを恐怖する桃子の若々しい自然の抵抗は、それだからこそ深くひかれている桃子の真直な女らしいよさの一つの流露として順助の肺腑に迫るのであった。
やがて順助は、やや諧謔的に、
「どうも世の中のことは、こんなものだね」
そして煙草の匂をしずかに流しながら、
「この話は、では撤回しておこうね。その方がいいだろう?」
暫く黙りこんでいた桃子が、膝で順助の前へよって行った。
「ね、げんまん[#「げんまん」に傍点]して」
小指をさしつけ、順助が黙ってさし出す小指に桃子は自分の小指を絡めて、子供たちが約束げんまん、しっしっしっと振る時のように真面目に力を入れて一つ二つ三つと自分で上下に振った。
「いい? 順助さん、約束して。私がこれからでもいつか本当に困ったようなとき、きっと相談にのってくれる?」
それは風変りな忘れられない晩であった。灯のない夏の夜空の薄らあかりを背にして光っているような桃子の虚飾のない精一杯の心と、その心の弾力さながらに半ばまだ眠りつつ艶やかな曲線にうごいているような桃子の体とは、ほとんど抑えがたく順助を牽きつけた。桃子の柔かい巻毛のこぼれている顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6、421−1]《こめかみ》のところへ心からな親愛の接吻を与える心持をこめて、順助は、
「ああいいよ」
と答えた。
三
直接の形では一言も表現されないけれど、互のまじりっけのない情愛と、その情愛の人間らしい力から、自然の偶然にかくされた暗さに屈しない意志をも認めあって、桃子の心には、順助に対したときいままでよりなおくもりのない歓びと勇気とが感じられるようになったのであった。
いつか順助と誰かと結婚するようになるであろう。それは、自分についても考えられると同じ桃子にとっての分別である。音楽会で計らずもさよ子と一緒の順助に会って、連想は自然そこへも導かれるのであったが、桃子はその後順助にあっても自分からそのことにはふれなかった。桃子の若い潔癖は、その年ごろの一組さえみれば、きまりきった意味で眺めようとする周囲の眼を、少くとも自分の視線のなかに置くまいとするのであった。
初夏に移ろうとする季節になって、二日つづきの休日があった。風邪をこじらした母の多代子が東京から小一時間ばかりの海辺にある小さい家へ行っている。急に思い立って桃子も出かけた。元はゆるやかな砂丘つづきで、小松や萱《かや》の生え茂っていたその海岸を縫って、近年観光のドライヴ・ウエイができた。家はその路をへだてて海に面する高みにあるので、ひところ、土曜、日曜は東京方面から箱根に向って深夜まで疾走する自動車の波、すれ違って東京へと帰路をいそぐ車の動きで海面の燦きはいつもその路の上を走っている車のボディに反射して目に映る有様であった。
このごろはガソリンがなくて、その路の上も閑静となっている。
焼杉のサンダル下駄を無雑作に素足の先につっかけて、着古した水色の薄毛の服に小さいエプロンをつけた姿を暢気《のんき》に仰向け、桃子は庭の芝生のゆるい斜面に臥《ね》ていた。昼近い陽にぬくもった松の樹脂の匂い、芝生から立ちのぼる見えない陽炎《かげろう》のようないきれ、それらが海近くの濃い純粋な空気の中でとけあっていて、目をつぶってころがっている桃子はただ日光がふり注ぐばかりでなく、ふんだんな光りと空気の微粒がぴちぴちと快く粒だって皮膚や髪の根にまでしみて来るような感じである。
どっか空の奥でプロペラの顫える音がしている。目をつぶっていても瞼の裏はうす赤く透けるようで睫毛がふるえる。桃子は去年の春ごろ、順助とこの芝生の上に臥ころんでいたときのことを思い出した。今のようにして桃子が臥ている。それとならんで、両方からのばした手の先がもうすこしで触れ合うほどの距離をおいて順助も仰向けにのびている。二人とも眩ゆい日光を遮るために片腕曲げて額のところにのせていた。ちょうど今きこえているような爆音がして、碧く晴れわたった空を西へ向ってゆく機体が見えた。松の梢の上空で、すこし角度が変れば操縦者の姿も見えそうな気がする。桃子は静かな憧れと満足の響く声でいった。
「ね、私たちのこうやっているの、見えるかしら」
「さあ――あれで案外あるんだろう」
二人はなおしばらくそうやったままの姿勢で遠ざかってゆく機体を見送っていた。
実際の爆音も桃子の思い出の中の爆音も次第に微に明るい空の彼方へ消え去ったとき、急に桃子はギクッとした表情で両眼を開け、臥たまま自分の耳を疑うような眼つきをした。ちらりと聞えた声が順助そっくりだった。そんな空耳ってあるだろうか。もう一遍きこえたらと四辺の空気へ注意をこらしていた桃子は、今度は本当に覚えず、
「あら」
といちどきに芝生の上で上半身おきかえった。そこに順助が来ている。順助のうしろには紫色をぱっとにおわせてさよ子が笑って立っている。
「あら……」
桃子は仮睡からでも醒まされたような弱々しい途方にくれたような笑顔になりながら、きゅっきゅっと自分の額を握りこぶしで擦った。
「御免なさい、余り思いがけなかったもんだから」
桃子はやっと立って行って、
「よくいらしたわね」
とさよ子を迎えた。
「ゆうべ老松町の方へ電話かけたら、こっちだっていうもんだから」
「よかったわ。母さんもう御挨拶したの?」
「ちょっとお出かけだとさ」
飲みものの用意をしたり、あついしぼり手拭をこしらえたりしながら、桃子は単純な思いがけなさばかりではなく動かされている自分の感情で何となしうつむいた。こうやってここまで連立って来た二人の姿は何を語ろうとしているのだろう。
やがて多代子もかえって来て、みんなは東京からおもたせの御寿司を、芝生の木蔭へもちだしてたべた。生れつき善良さと悪意のない観察眼とを半ばずつ綯《な》い交ぜながら愛想よく多代子が、若い女客をもてなしている。さよ子は、時々、
「まあいい気持」
とか、
「ここ、砂地でも花が咲いて、ようございますわね」
とかいいながら、こだわりのない様子でそのもてなしを受けている。
「一休みなすったら、ちっと海岸を歩いていらっしゃいましな」
と多代子がいった。
「大した景色でもないけれど、江の島がついそこに見えますし気が晴れ晴れいたしますよ」
「きょうなんか、もう入れそうだな」
「冗談じゃない順助さん。駄目ですよ、そんな。――桃ちゃんも御一緒して、ね」
「…………」
順助は誰にともなく、
「すこし歩いて来ようか」
と立ち上った。さよ子も袂をそろえるようにして立って、
「おいでにならない?」
桃子をかえりみた。
「後から行きますわ――私、これから大いに腕のいいところおめにかけなけりゃならないんですもの」
「じゃ、たいてい、あの橋を真直出たところ辺にいるから」
二人は庭から木戸へ出てゆく。多代子はじっとそれを見送っていて、何かいおうとふりかえったら、もうその辺に桃子はいなくなっていた。
黒と白とのそのまだら犬はちっとも訓練されていない野放しで、桃子が放る枯木の枝をおっかけてその方へかけ出しはするけれど、それを咬《くわ》えて戻ることは知らないで、やたらにそこらの砂を蹴立ててふざけている。先へ先へと小枝を放りながら最後の砂丘を犬と一緒に勢いよく駈けおりて、顔
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