にかかる髪をはらいながらみると、さよ子の紫の姿と順助とが、ほんとにむこうの約束の防風よしずのところに見えた。桃子は来てよかったと思った。さよ子がこちらを見つけて手を挙げた。桃子も手をふって応え、だんだん近よると、順助が一ふき高く口笛を吹いた。まだら犬は背にうねりを打たせてかけて行く。
「おそかったわねえ」
さよ子が、そこへ坐って桃子にすぐいった。
「お待ちしたわ」
「御免なさい。その代り美味《おい》しいおやつが待ってるわ」
順助はまだら犬の前脚を片手で一束につかんでは角力のようなことをしているのであった。
「これ、お宅の犬?」
「御近所のなの」
煙草の煙が目に入るのをよけながら、なお順助は何ともいわず女連からは横向きの姿勢で犬と遊んでいる。その素振りからは桃子の直感にうつって来る何か苦しいものがある。今のさよ子が来たときより余計自分にものをいうようになっている。そのことも何か桃子に苦しかった。
二人が連れ立って芝生の端れに現われたとき、予感が全身を走ってそれは桃子を動揺させたのであったが、こうしてさよ子が自分の方へより向った面持でいるのを見ると、桃子はそれはやはり順助のために寂しく思わずにいられない気がするのであった。
多代子は三人づれで戻って来た若い心のそんな微妙な翳《かげ》にはまるで心づかず、アルバムを持ち出して中学生姿で自転車をもっている自分の息子たちと順助との写真をさよ子に見せたりした。さよ子は、昼間と同じようなしずかな愛嬌よさで、そんなものを眺めたり、多代子の言葉に応接している。さよ子とすればそうしているしかないこともわかるのであったが、その落つきに、さよ子として全くきずつけられているもののない、いわば玲瓏無垢な薄情さのようなものを桃子は感じとるのであった。
翌朝、桃子はその海岸から真直丸の内の勤め先へ行った。二日つづいた休日の後、なかなか多忙で、英文速記も何通かあった。ひまになると、順助のことが気にかかった。海岸で犬の前脚をつかまえて遊んでいた順助の横顔が髣髴《ほうふつ》した。すぐ電話をかけて来たりしない気持のこたえも、桃子はその人らしく思うのであった。
四日ほどして、順助が誘って外で夕飯をすましてから、二人は椎の若葉、樫の若葉、楓の若葉、様々の変化をもった新緑の柔かなかさなりをアーク燈で照している日比谷をぬけて暫く歩いた。
「――桃ちゃん、当分あっちから通うのかと思っていた」
「そんなことしないわ、汽車まるでひどくこむんですもの」
「それもそうだね。大井なんかのブリッジには朝下駄がおっこっているそうだから」
この間うちのことにはふれず、順助はずっと何とない世間話をしているのであったが、ふっと、
「どういうもんだろう」
といった。
「男と女と、いろいろの感じかたがちがうのはあたりまえだが――何か時代によって、特別、ちがいがひどくなるようなことがあるんじゃないか。――どう思う?」
桃子が答えるのを待たずに、順助は、
「たとえば結婚なんかについて――いや、結婚というより、妻というものについてかな。今、若い男はこれまでよりどっかちがった人生的な気持で考えているんだと思うな。もと永続的な向上の理想で結婚とか家庭とかいうものを考えたそういう部類のいわゆるましな若いものは、今ごろずっと切迫した気持で、一方いつ中断されるかもしれない生命ということを考えて、そして妻というものを考えてると思うんだ。うまくいえないが……」
こまかい砂の敷いてある径道《こみち》を歩きながら、順助は自分のしていることを心づかないで偶然手にふれたヒマラヤ杉の青芽の一つをむしった。
「わかんないかい? ね、一刻さきの分らない生命だという気持は現実につよく作用するからね。享楽的になっているとか無理想になって来ているとかいうけれどそれは一部さ。いつの時代だって、そうなる者はいるんだ。そう喋りはしないけれど、もっと深く感じているいい奴が男のなかに案外いる。そういう男は現代に家庭の安定というような浅いところで妻を感じていやしないと思う。もっとむき出しに時代の運命の荒っぽさを見て、その苛烈な人間の運命への母性的なものとして妻を考えると思う」
順助の顔の上には、あのとき海岸で犬と遊んでいたときのような、それをもっと濃くしたような寥しさと熱情のいり混った表情が拡った。
「女のひとはどうもちがうらしいね……女のひとはこの頃いわば日常的にますます安定に執着して来ているんじゃないかな。男のそういうこころと、逆に行ってる……」
この間うちからのさよ子と順助とのすべてのいきさつが桃子の心の中ではだんだんと肯けて来るのであった。
「時代の不幸なんて、妙なところにあるね」
桃子は、海岸の家へ行った晩、母の多代子が珍らしいこんなさし向いの折にという風で切り出した言葉を思い出した。それは、この前伯母が来たとき、桃ちゃんも、そろそろお家にいらっしゃるようにしなくてはね、どうしても近ごろは、ああやっていらっしゃると御縁が遠くなり勝ちですからね、といったことを、自分も賛成の意見として話したのであった。親や娘たちも、このごろは妙なあせりかたをしている。そこに何かいつまでも変らない女のみじめさと、そのみじめさからの飾られた計算があるようで、桃子は悲しかった。
「ね、順助さん、そう思わない? そういうこと、みんな女が、男のひとと本当に同じ感覚で歴史の全体の断面を自分のものと感じるところまでいってないからなのよ。自分ひとりの幸、不幸でだけわかって、何だか時代の不幸というような感覚まで行ってないみたいなんだもの――ちがうかしら……」
「うむ……」
永い間黙って歩いていて、順助はぽっつりと、
「愛すということを女はどう考えているんだろう」
と云った。
それは殆ど自分自身に向って訊くような沈んだ調子である。桃子の胸を深い鋭い疼《いた》みに似たものが走った。こんなに近い近い自分たち二人の男と女、そしてまたこんなに遠くもある自分たち二人の男と女。これもこれとして一つの完き愛とどうしていえないことがあるだろう。桃子はそう思い、自分たちの靴にふまれて鳴るこまかい砂の音をきくのであった。
底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
1979(昭和54)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
1951(昭和26)年5月発行
初出:「婦人朝日」
1940(昭和15)年7月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
2003年6月29日修正
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