順助はそれ以上蟻の巣をかきまわしたりはしない。またその四角い踏瓦を元のとおりにかぶせた。そして、口笛か何か吹いて歩き出した。
二人も兄たちがいて、桃子にそんなにして蟻の巣を見せてくれたのはどうして順助だけだったのだろう。
やっぱりそれもいつかの夏、簾の下った部屋部屋の電燈を消して、かくれんぼをしたことがあった。桃子は父の大きいテーブルの下に這いこんで息をころしていたが余りいつまでたっても鬼が来ないのでだんだん待ちきれなくなって来た。片手でタンマをこしらえながらその机の下を這い出して、ひょいと立ち上ろうとした途端、廊下の簾の蔭から鬼になっている順助が何と思ったのか犢《こうし》ぐらいの嵩で自分も四つ足になりながらいきなり姿を現した。余り度胆をぬかれたのと怖かったのとで桃子は本当に泣き出してしまった。
「順ちゃんたら、そんな黄色いものを着てるのに這うんだもの」
そういって泣いた。順助は古風な黄麻の湯上りを着ていたのであった。
「弱虫だなあ」
順助はそういいながら泣いている桃子の傍に待っていた。そして、桃子が泣きやむと、
「もういいかい?」
と訊いた。
そのもういいかい? と小さい自分に訊いた順助の声の調子は、何とまざまざと二十三の娘となった今の桃子の耳の底というよりは心の奥に、抑揚のこもった響となってのこっていることだろう。あのときの順助や自分を思い出すと、何ともいえず懐しくまた滑稽で思わず笑えるのだけれども、笑いのなかには喉にこみ上げるような思いもこもっている。
兄二人が学校を終って就職し、順助が帝大の物理へ通うようになってから、元のような暮しは変ったが、順助のギタアにピアノを合わせるのは桃子であった。
「桃ちゃん、これ読むといい」
そういってイリーンというひとの書いた書物の歴史とか時計の歴史とかいう本を貸すのも順助であったし、英文科にいる桃子の学校でつかう本をみて、
「やっぱり先生ってものは自分が習ったような本をよますもんだな。特別な学者でなければ、語学の力で昔へばかりさかのぼらないだっていいんだろう。言葉なんて生きてるもんだもの」
と、外国雑誌をくれたりした。
母親の多代子が、おだやかな信頼の眼差しで、そんなことを喋ったり時には頻りと論判する二人を眺めているような空気が一貫しているのであったが、年々に色どりも多くなって来た桃子のひそかな独居の感情の裡では、ふっと駭《おどろ》きのような歓びのような迸りを感じることがある。桃子はいつとなしに、順助が、兄たちともほかの男の誰彼ともまるでちがった一種の心持を自分におこさせることを心付くようになった。
その感じはちょうど交響楽が非常によく調子を合わせて奏せられてゆくのを聴いているとき、心はだんだんうちひらいて、音と溶け合い、高く低く、音から音へと広々と展開しまたひきしまってゆく、その快さに似ていた。順助には眼にも、声にも、ちょっとした物ごしの中にも、桃子の感覚に心持よくひっかかって来るものがあって、それは順助といるときの桃子に何ともいえず安心な、活溌な、同時に快活な生きるよろこびのようなものを吹き込んだ。順助といるとき、桃子は一番単純になった自分を感じ、つるつるしたむき出しの膝っ小僧を二つならべて、それでよろこんで坐ってどんな話でも出来る真摯な気分になるのであった。
去年、桃子が学校を出て、今つとめている貿易会社へ入った夏、防空演習があった。
「私は御免蒙りますよ、どうもこれじゃあね」
蚊帳を吊って多代子が横になってしまったあと、来合わせていた順助に、
「上へ行きましょうか」
桃子が先へ立って二階へあがった。南の空には、暗い屋根屋根越しに青く太くサーチライトの光芒が二条動いて、飛行機の爆音が高く遠いところにきこえている。灯をけしている座敷には、ぼんやりした夏の夜空の明るみがあった。
「このまんまでいい?」
「いいよ」
順助は座蒲団を背中の下に敷いて、ごろりと横になった。桃子は手摺のところへ腰をかけて風にふかれていたが、やがて、
「ああ思い出した、いいものがあるのよ、きょうは」
下へおりて、番茶道具と越後のある町の名物の絹餠をもって来た。
「きょう送って来たばっかりよ。但しみんなたべちまいっこなし」
「亮さん相変らずなのかしら」
下の兄が、そこへ赴任しているのであった。
「そうでしょう、みな元気らしいわ、でもあの辺は紫外線が足りないから子供はこの頃ハダカ主義なんですって」
桃子はまた手摺のところにかけ、順助はすこし離れたところに横になっているのであったが、ふっとその体が動いた気配で桃子がそちらへ向くと、薄闇の中にワイシャツが白く浮いて順助は胡坐《あぐら》になっている。そして、二つ折にした座蒲団を胡坐の上へかかえこむような形で、
「ね、桃ちゃん」
といった。い
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