どことなし余分の自身の雰囲気に自分から身を置いているような不安があった。今晩の演奏ぶりがこんなにも生粋でしかも芸術への気魄にみちているのは、どういう変化がこの富と天賦とをゆたかにそなえた女性の内心に生じたからだというのだろう。幸福に飽満したからとはいい切れないもの、もっと女の心の奥に複雑に目醒まされたもの、それが今や彼女の音楽を一層の含蓄と熱意とに満ちたものとしているように思われる。そして、それは仕合わせな暮しと一応みられている生活のなかにも在る微妙な人間生活の陰翳から来るものだと思われるのは、自分だけの間違った推察だろうか。
女の芸術の進んでゆく姿に、こんなにうたれる今晩の自分の心の感じやすさの理由に我から心付くところもなくはなくて、桃子はぼんやり上気した頬へプログラムで風をおくっていた。いつの間にか来た順助に、
「ひとり?」
ときかれて、桃子は思わず、
「あら」
と、顔を赧らめた。
「よかったら、ちょっと出ようか?」
歩きながら順助は、
「森崎知ってただろう?」
といった。
「あの妹さんだ」
休憩の人々で溢れている露台の太い柱のところで、順助は改めて二人を紹介しあった。
「従妹の川田桃子です。森崎さよ子さん、どうぞよろしく」
そして、煙草に火をつけながら、
「園子夫人の進境著しい、ね」
ひとりでの感情を声に溢らして桃子は、
「ほんとう!」
と相槌をうったが、すぐさよ子をかえりみて、
「ここ、いつでもいらっしゃいますの?」
と話題のなかへ対手を誘った。
「時々――兄ったら自分の来たくないときだけ切符くれますのよ」
「じゃあ今日は特別待遇ですね、二枚もおごってくれたんだから」
「友兄さん、今うれしいからなんでしょう」
順助は、
「ああ、そうか」
と笑って、
「友二さん、学位とれることになったんだそうだ」
と桃子に説明した。
順助は、音楽会へ女の子をつれて来るのが好きというたちの青年とは全く反対の性格である。その気質をよく知っている桃子が、今夜は思いがけず一緒に現れた初対面のさよ子に対して、いわば順助への心づかいから、自分をなるたけ内輪に内輪にと表現しようとしているのが、順助にはっきり感じられた。
演奏会が終ってから銀座へでも出ようと、暗いビルディングの間を歩いたりするときも、桃子は和服で草履ばきのさよ子の足なみに自分の歩調を合わせている。さよ子は一向それに気づかないでいる。さよ子のその自然さも、順助にはわかる。
三人は、階下で花なども売っている有名な果物店の上で冷たい飲みものをとり、そこからぶらぶら有楽町の駅まで行った。出札口のところに切符を買うひとの列が出来ていて、順助はその一番しまいに跟《つ》いたが、何気なく帽子をかぶり直す横顔に微かな当惑の色の浮かんでいるのが桃子の目に入った。ああ、きっとかえる方向が別々なのだ。桃子がひとりになるのを順助は気にしているのだ。
「お宅――どちらですの?」
「ずうっと大森」
桃子は、
「順助さん――私の分まで買う気なんじゃないのかしら」
ひとり言のように呟いた。
「ちょっと失礼、ね。いってくるから。――私パスなんですもの」
書類入鞄からパスを出して、桃子は順助に向って歩きながら、これ、これ、という風に動かしてみせた。そばへ行くと少し声を落していった。
「――私大丈夫だから――ほんとに心配しなくていいのよ」
「ああ」
列にならんで雑踏するプラットフォームへ出ると、順助は半分冗談めいて、
「どっちが先へ来るだろうかな」
と、左右の線路を見くらべるようにした。やがて、それにはちっともふざけたところのない暖かさのある声で、順助は、
「桃ちゃんが乗ってしまうまで待っててやるよ」
というのであった。
二
中学の二年のとき父を亡くしてから、順助は半分は伯父である川田の家で桃子たち兄姉のなかにまじって成長したともいえる工合であった。三つ年上の広太郎がいつも順助の兄役であった。そのこともあったろう。でも、折々桃子が不思議に思うくらい、桃子の思い出のなかには順助と遊んだいろいろの情景が濃くのこされて来ている。
たとえば夏のかっと灼《て》りつけた庭土の上を蟻が盛に歩いているのを眺めたりしたとき、桃子の若い回想のなかに甦って来るのは、いつもうちの離れの前栽の景色にきまっていた。
茶室づくりの離れの前栽には、松や蕚などがひっそり植えこまれていて、暑い昼間、蜥蜴《とかげ》が走った。小さい桃子のおでこにざらざらした麦藁帽子の縁がさわっている。それは順助がかぶっているのであった。桃子は四角な踏瓦をひっくりかえした下から現れ出た柔かい土とそこにある蟻の卵とを、びっくりして眺めていた。
「ほら、おどろいているんだよ。駈けてるだろ、卵をよそへ運ぼうとしているんだよ」
しかし
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング