つもの気持のいい順助の声である。けれども、その声にはごく微かに何だかふだんでない響があるようで、桃子は返事が喉につまった。
 それにかまわず、順助は、
「ね、僕が君に結婚を申し込んだとしたら大変にそれは唐突かい?」
 ああ、ああ、このいいよう! 熱い光った波が体を貫いて桃子はそのまま攫われてゆきそうな気がした。考えたのはやっぱり自分ひとりではなかったのだ。
「――まるで考えないことだったかい?」
「そうじゃないわ」
 それどころか、桃子はくりかえしくりかえし何度考えたであろう。特に勤めるようになっていろんな男のひとたちのタイプを見るにつけ、桃子には順助が決してどこにでもいる青年でないことがますますはっきりして来たのであった。
「どう思う?――不可能だろうか」
 桃子はいつの間にか手摺をすべりおりて、窓に背をつけて坐った。
「可能性があると思う?」
「ね、順助さん……」
 涙がつきあげて来て、桃子はやっと圧しつぶした声で、
「どうして従兄なんかに生れて来たのよ!」
 両方の頬ッぺたを流れる涙を、桃子は荒っぽく手の甲で拭いては、それを子供らしくスカートにこすりつけた。
「父さんたち、ほんとに頓馬だわ、兄弟だなんて」
 桃子は涙と一緒にそういって苦しそうに笑った。
「それ僕も同感だ」
「――そのこと、どう考えた?」
「だって、桃子、こうやって話す以上僕としては考えてみてのわけだろう!」
 順助の調子は何と説得的だろう。桃子の心と体とはそういう順助の声の優しい重さに撓《しな》うばかりである。けれども、そのように瑞々しく撓えば撓うほど、桃子の肉体の内に一つの叫びが高まるのをどう説明したらいいだろう。
 桃子は暗いあたりを力とたのむように思いつめた勢で、
「それでずっとやって行ける?」
といった。
「私こんなたちでしょう。私子供うみたいと思いそうなの――わかる? 私のいう意味がわかる? 私たちの心持。それだけのねうちもっていると信ずるの。だから、父さんたち、頓馬だっていうのよ。……でも、こんな気持男のひとにわかるのかしら――」
 それは順助自身の感情としてもはっきり理解されることであった。二人のたっぷりした人間らしさ。たっぷりした互の気に入り工合、それは自然な生命の横溢を希っている。偶然な血族の関係から不具の子供をもったりすることを恐怖する桃子の若々しい自然の抵抗は、それだからこそ深くひかれている桃子の真直な女らしいよさの一つの流露として順助の肺腑に迫るのであった。
 やがて順助は、やや諧謔的に、
「どうも世の中のことは、こんなものだね」
 そして煙草の匂をしずかに流しながら、
「この話は、では撤回しておこうね。その方がいいだろう?」
 暫く黙りこんでいた桃子が、膝で順助の前へよって行った。
「ね、げんまん[#「げんまん」に傍点]して」
 小指をさしつけ、順助が黙ってさし出す小指に桃子は自分の小指を絡めて、子供たちが約束げんまん、しっしっしっと振る時のように真面目に力を入れて一つ二つ三つと自分で上下に振った。
「いい? 順助さん、約束して。私がこれからでもいつか本当に困ったようなとき、きっと相談にのってくれる?」
 それは風変りな忘れられない晩であった。灯のない夏の夜空の薄らあかりを背にして光っているような桃子の虚飾のない精一杯の心と、その心の弾力さながらに半ばまだ眠りつつ艶やかな曲線にうごいているような桃子の体とは、ほとんど抑えがたく順助を牽きつけた。桃子の柔かい巻毛のこぼれている顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6、421−1]《こめかみ》のところへ心からな親愛の接吻を与える心持をこめて、順助は、
「ああいいよ」
と答えた。

        三

 直接の形では一言も表現されないけれど、互のまじりっけのない情愛と、その情愛の人間らしい力から、自然の偶然にかくされた暗さに屈しない意志をも認めあって、桃子の心には、順助に対したときいままでよりなおくもりのない歓びと勇気とが感じられるようになったのであった。
 いつか順助と誰かと結婚するようになるであろう。それは、自分についても考えられると同じ桃子にとっての分別である。音楽会で計らずもさよ子と一緒の順助に会って、連想は自然そこへも導かれるのであったが、桃子はその後順助にあっても自分からそのことにはふれなかった。桃子の若い潔癖は、その年ごろの一組さえみれば、きまりきった意味で眺めようとする周囲の眼を、少くとも自分の視線のなかに置くまいとするのであった。

 初夏に移ろうとする季節になって、二日つづきの休日があった。風邪をこじらした母の多代子が東京から小一時間ばかりの海辺にある小さい家へ行っている。急に思い立って桃子も出かけた。元はゆるやかな砂丘つづきで、小松や萱《かや》の生え茂っていたそ
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