の海岸を縫って、近年観光のドライヴ・ウエイができた。家はその路をへだてて海に面する高みにあるので、ひところ、土曜、日曜は東京方面から箱根に向って深夜まで疾走する自動車の波、すれ違って東京へと帰路をいそぐ車の動きで海面の燦きはいつもその路の上を走っている車のボディに反射して目に映る有様であった。
 このごろはガソリンがなくて、その路の上も閑静となっている。
 焼杉のサンダル下駄を無雑作に素足の先につっかけて、着古した水色の薄毛の服に小さいエプロンをつけた姿を暢気《のんき》に仰向け、桃子は庭の芝生のゆるい斜面に臥《ね》ていた。昼近い陽にぬくもった松の樹脂の匂い、芝生から立ちのぼる見えない陽炎《かげろう》のようないきれ、それらが海近くの濃い純粋な空気の中でとけあっていて、目をつぶってころがっている桃子はただ日光がふり注ぐばかりでなく、ふんだんな光りと空気の微粒がぴちぴちと快く粒だって皮膚や髪の根にまでしみて来るような感じである。
 どっか空の奥でプロペラの顫える音がしている。目をつぶっていても瞼の裏はうす赤く透けるようで睫毛がふるえる。桃子は去年の春ごろ、順助とこの芝生の上に臥ころんでいたときのことを思い出した。今のようにして桃子が臥ている。それとならんで、両方からのばした手の先がもうすこしで触れ合うほどの距離をおいて順助も仰向けにのびている。二人とも眩ゆい日光を遮るために片腕曲げて額のところにのせていた。ちょうど今きこえているような爆音がして、碧く晴れわたった空を西へ向ってゆく機体が見えた。松の梢の上空で、すこし角度が変れば操縦者の姿も見えそうな気がする。桃子は静かな憧れと満足の響く声でいった。
「ね、私たちのこうやっているの、見えるかしら」
「さあ――あれで案外あるんだろう」
 二人はなおしばらくそうやったままの姿勢で遠ざかってゆく機体を見送っていた。
 実際の爆音も桃子の思い出の中の爆音も次第に微に明るい空の彼方へ消え去ったとき、急に桃子はギクッとした表情で両眼を開け、臥たまま自分の耳を疑うような眼つきをした。ちらりと聞えた声が順助そっくりだった。そんな空耳ってあるだろうか。もう一遍きこえたらと四辺の空気へ注意をこらしていた桃子は、今度は本当に覚えず、
「あら」
といちどきに芝生の上で上半身おきかえった。そこに順助が来ている。順助のうしろには紫色をぱっとにおわせてさよ子が笑って立っている。
「あら……」
 桃子は仮睡からでも醒まされたような弱々しい途方にくれたような笑顔になりながら、きゅっきゅっと自分の額を握りこぶしで擦った。
「御免なさい、余り思いがけなかったもんだから」
 桃子はやっと立って行って、
「よくいらしたわね」
とさよ子を迎えた。
「ゆうべ老松町の方へ電話かけたら、こっちだっていうもんだから」
「よかったわ。母さんもう御挨拶したの?」
「ちょっとお出かけだとさ」
 飲みものの用意をしたり、あついしぼり手拭をこしらえたりしながら、桃子は単純な思いがけなさばかりではなく動かされている自分の感情で何となしうつむいた。こうやってここまで連立って来た二人の姿は何を語ろうとしているのだろう。
 やがて多代子もかえって来て、みんなは東京からおもたせの御寿司を、芝生の木蔭へもちだしてたべた。生れつき善良さと悪意のない観察眼とを半ばずつ綯《な》い交ぜながら愛想よく多代子が、若い女客をもてなしている。さよ子は、時々、
「まあいい気持」
とか、
「ここ、砂地でも花が咲いて、ようございますわね」
とかいいながら、こだわりのない様子でそのもてなしを受けている。
「一休みなすったら、ちっと海岸を歩いていらっしゃいましな」
と多代子がいった。
「大した景色でもないけれど、江の島がついそこに見えますし気が晴れ晴れいたしますよ」
「きょうなんか、もう入れそうだな」
「冗談じゃない順助さん。駄目ですよ、そんな。――桃ちゃんも御一緒して、ね」
「…………」
 順助は誰にともなく、
「すこし歩いて来ようか」
と立ち上った。さよ子も袂をそろえるようにして立って、
「おいでにならない?」
 桃子をかえりみた。
「後から行きますわ――私、これから大いに腕のいいところおめにかけなけりゃならないんですもの」
「じゃ、たいてい、あの橋を真直出たところ辺にいるから」
 二人は庭から木戸へ出てゆく。多代子はじっとそれを見送っていて、何かいおうとふりかえったら、もうその辺に桃子はいなくなっていた。

 黒と白とのそのまだら犬はちっとも訓練されていない野放しで、桃子が放る枯木の枝をおっかけてその方へかけ出しはするけれど、それを咬《くわ》えて戻ることは知らないで、やたらにそこらの砂を蹴立ててふざけている。先へ先へと小枝を放りながら最後の砂丘を犬と一緒に勢いよく駈けおりて、顔
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