てもっている心持ちを、いきなりそのものとして持つことは殆んど絶対に不可能なことである。新しくプロレタリヤ作家にふみ出した私のような作家の場合には、このことが当然いえるのであって、若し私が筋を書いた小説でなく本当に小説らしく心をも捕えてそれを生かしている小説を書き度いと考えたならば、尠くともある時期は、多くの困難と努力で、階級的な大小の実際的訓練を経て、自分自身の感情をも叩き上げなければならない。一本のステッキというものに就いて或は赤皮の靴というものに対して、もと私がそこに感じたのは、せいぜい趣味としてそこに現れているそれ等のものの持主の生活環境への想像に止っていたが、今はそうではない。もっと強烈ななまなましい対立する力の形象化をそこに感じる。だからステッキに就いて一つの小品を書いたとしても、私はそのような内容でそれを書くことは、私の気持ちの上から出来なくなって来ているのである。
この感情の再組織のことはプロレタリヤ文学上では大きな問題であると思う。これから先もプロレタリヤ文学の発展のためには繰返し取り上げられなければならない問題であろう。
私は、プロレタリヤ文学においても筋だけの小
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