の心を捉えるべき主題がない。言い換えれば筋はあるがその話の筋につれて展開して来る社会の様々な人心・その錯綜・その衝突・悲しみ・喜びが現実にあるより一層鮮かな輪廓を以って読者の心を捕えるような芸術の真の現実性というものが欠ける。それならばどういう力で、作家はそのような強い生活の搦《から》み合いの姿、そこで生き死にする人間の心持ちを再現するかといえば、それは一つの事件の現われ方をとおして、その現象は根本的にどんな動機、社会的な相互関係の上に起っているかということを今日の世の中の現実の姿の中に掴んだ時初めて作品の中に、その事件の当事者さえもそのように深刻とは自覚していなかったと告白するような、根深い社会性や社会の各層に属する人々の生活感情を反映することが出来るのであろうと思う。
一人のインテリゲンツィア作家が歴史の必然的の力によって階級的な移行をした場合、その作家の中にはその必然を自身の要求として理解し勇しく新しい困難の中に進んでいこうという決心を中心として、さまざまの感情は確に身についたものとして持っている。しかし自分が新たに所属した階級に生れ育ち闘っている人々がその生活の中から与えられてもっている心持ちを、いきなりそのものとして持つことは殆んど絶対に不可能なことである。新しくプロレタリヤ作家にふみ出した私のような作家の場合には、このことが当然いえるのであって、若し私が筋を書いた小説でなく本当に小説らしく心をも捕えてそれを生かしている小説を書き度いと考えたならば、尠くともある時期は、多くの困難と努力で、階級的な大小の実際的訓練を経て、自分自身の感情をも叩き上げなければならない。一本のステッキというものに就いて或は赤皮の靴というものに対して、もと私がそこに感じたのは、せいぜい趣味としてそこに現れているそれ等のものの持主の生活環境への想像に止っていたが、今はそうではない。もっと強烈ななまなましい対立する力の形象化をそこに感じる。だからステッキに就いて一つの小品を書いたとしても、私はそのような内容でそれを書くことは、私の気持ちの上から出来なくなって来ているのである。
この感情の再組織のことはプロレタリヤ文学上では大きな問題であると思う。これから先もプロレタリヤ文学の発展のためには繰返し取り上げられなければならない問題であろう。
私は、プロレタリヤ文学においても筋だけの小説を書くのには満足できなかった。自分は「もう少し違った小説を書きたい」というのが私の今日までの謙遜にしてまた強情な一つの願いであった。それを実現するためには、今日まで自分としては全力的な発展のための努力がなければならなかった次第である。
リアリストは経験主義者ではないということについて。
私は、婦人作家の中では独特な作風をもっていた田村俊子氏の、作家としての生活振りを思い出す。彼女は日本で極く短い期間にロマンチックな形で現れたインテリゲンツィアの婦人解放運動と前後して作家活動をはじめ、前の時代の自然主義の婦人作家が示さなかった女の自我の問題を恋愛の経緯《いきさつ》の中に芸術化した。田村氏はそのことを極く自然発生的にやった。彼女のいわゆる一人の「女作者」の胸中に燃えている火のような熱が社会的にはどんな意味を持っているものか、また個性として現れている女の精神活動のその様な傾向は時代との関係でどんな普遍性をもっているかということについては考える力をもたなかった。自分というものを社会の現実の中に置いて、自分の発展や衰滅の道行きを理解することが出来なかった。そのために彼女らしい日常生活の横溢が経済的にも行詰って了うと、実際生活に於いて地味にそこから発展の道を見出すことが出来ず、同時に作家としてもその活動を挫折させた。自分が感じたこと、自分が生きたこと、そういう範囲では彼女はそれを強烈に作品の中に反映することが出来た。けれども彼女の場合には、自覚されていなかったそういう経験主義的な生活振りを、今日の私達が見直すと、そこにある破局は畢竟彼女がリアリストでなかったこと、或は彼女の熱と力との放散を質的に高める社会的な広範な基礎を生活の中にもっていなかったということを思うのである。
文学において、リアリストと混同され勝ちな経験主義者や瑣末な現実の断片を受身に反映する写実主義者は、ある一つの段階に達すると必ず共通な倦怠を生活に対して感じるようになるらしい。小さいものの観方をしか持たない人間程早く人生に飽きて退屈すると同じ理由で、そういう作家達にとっては、ある年齢が来ると、新しいことということ、新しい感情というものが一つも毎日の生活の中で発見されなくなって来る。「ああこれもあの時のものと同じだ」「ああこんなことはもう百も承知の事だ」世の中の現象が反覆としてだけ映って来る。そして何時も
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング